末松謙澄(読み)スエマツケンチョウ

デジタル大辞泉 「末松謙澄」の意味・読み・例文・類語

すえまつ‐けんちょう〔すゑまつ‐〕【末松謙澄】

[1855~1920]政治家豊前ぶぜんの生まれ。英国に留学し、伊藤内閣の法制局長官・逓信大臣内務大臣を歴任。のち、枢密顧問官。編著「防長回天史」のほか、翻訳にバーサ=M=クレイの小説「谷間の姫百合」などがある。

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精選版 日本国語大辞典 「末松謙澄」の意味・読み・例文・類語

すえまつ‐けんちょう【末松謙澄】

  1. 明治時代の政治家、文学者。子爵。豊前(福岡県)出身。伊藤博文の知遇を得、イギリスに留学後、法制局長官逓相、内相を歴任。枢密顧問官。著に「演劇改良意見」「日本文章論」。翻訳に「谷間の姫百合」など。安政二~大正九年(一八五五‐一九二〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「末松謙澄」の意味・わかりやすい解説

末松謙澄
すえまつけんちょう
(1855―1920)

明治・大正時代の政治家。名は正式には「のりずみ」と読む。号は青萍(せいひょう)。安政(あんせい)2年8月20日、豊前(ぶぜん)国(福岡県)の大庄屋(おおじょうや)の家に生まれる。1871年(明治4)上京。東京日日(にちにち)新聞社に入社して文才を発揮。伊藤博文(いとうひろぶみ)に認められて官途についた。1878年駐英公使館書記生見習として渡英し、翌年ケンブリッジ大学に入学。文学・語学・法学を修め、滞英中『源氏物語』(抄)を英訳刊行した。1886年帰国後、内務・文部両省に勤め、1889年には伊藤の長女と結婚。第1回衆議院議員選挙以来、3回連続当選し、1896年からは貴族院に転じた。1892年以後、第二~四次の各伊藤内閣で法制局長官・逓信(ていしん)大臣・内務大臣を歴任。日露戦争中には渡英して、日本の立場を英文の著作で説明した。1907年(明治40)子爵。演劇改良会の設立、イギリスの女流作家バーサ・M・クレイの小説『谷間の姫百合(ひめゆり)』やイギリス人アンデルの『日本美術全書』の翻訳、『防長回天史』の編纂(へんさん)など、幅広い活動でも知られる。文学博士・法学博士。大正9年10月5日死去。

[大日方純夫]

『金子厚男著『末松謙澄と「防長回天史」』(1980・青潮社)』『玉江彦太郎著『青萍・末松謙澄の生涯』(1985・葦書房)』


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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「末松謙澄」の解説

末松 謙澄
スエマツ ケンチョウ


肩書
衆院議員,内務相,逓信相,枢密顧問官

別名
幼名=線松 号=青萍

生年月日
安政2年8月20日(1855年)

出生地
豊前国京都郡前田村(福岡県行橋市)

学歴
東京高師中退 ケンブリッジ大学卒

学位
文学博士〔明治21年〕 法学博士〔大正5年〕

経歴
大庄屋の家に生まれる。村上仏山の私塾・水哉園に学び、明治4年上京して「東京日日新聞」の記者に。伊藤博文の知遇をえ、官界に転じ、11年外交官として英国に留学、その間15年に「源氏物語」を英訳。19年帰国し、文部・内務省に勤務しつつ、演劇改良運動にも尽力。23年第1回総選挙で政界入り、衆院議員に連続3期当選。のち、法制局長官、貴院議員、逓信相、内務相、枢密顧問官などの要職を歴任。40年子爵。40年学士院会員。この間法律書など150編の著作があり、とくに「修訂・防長回天史」(12巻)の編纂は有名。また翻訳小説「谷間の姫百合」も人気を博した。

没年月日
大正9年10月5日

資格
?国学士院会員〔明治40年〕

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朝日日本歴史人物事典 「末松謙澄」の解説

末松謙澄

没年:大正9.10.5(1920)
生年:安政2(1855)
明治大正時代の官僚,政治家。号は青萍。幼名は線松。豊前国小倉藩京都郡前田村(福岡県行橋市)の大庄屋・末松房澄・伸子の4男。村上仏山の水哉園で漢学を修め,明治4(1871)年上京し近藤真琴に学ぶ。また高橋是清と出会い親交を深めた。まもなく『東京日日新聞』の日報社に記者として入り,社長の福地源一郎に認められ,社説の執筆者(筆名・笹波萍二)に登用された。8年,福地の紹介で伊藤博文の知遇を得,官界に転じた。11年,英国公使館付となり渡英,ケンブリッジ大学在学中に日本の古典『源氏物語』を英訳,出版した(1882)。19年帰国。内務省参事官を経て県治局長。演劇改良会を組織し天覧劇を演出。英国女流作家バーサ・クレイの小説を翻訳して,『谷間の姫百合』を出版した。門司築港株式会社の創立に,企救郡長津田維寧(水哉園の同門)の要請で,財界のドン渋沢栄一を口説き,中央財界から多額の資金を導入した。22年伊藤博文の次女生子と結婚。第1回総選挙に福岡県から出馬し連続3期当選した。法制局長官,貴族院議員を務め,逓信大臣,内務大臣を歴任。日露戦争(1904~05)中は英国に駐在し戦時外交に尽くした。帰国後,枢密顧問官。子爵。帝国学士院会員に挙げられた。30年,毛利家歴史編輯所総裁を委嘱され,23年後に『修訂・防長回天史』12巻を脱稿した。末松は再版緒言の中で「本書防長ノ二字ヲ冠スト雖モ,実ハ維新全史ト異ナラズ。読者ノ幸ニ此見地ヨリ観察センコトヲ切望ス」と書いている。<参考文献>末松春彦編『青萍集』

(玉江彦太郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

20世紀日本人名事典 「末松謙澄」の解説

末松 謙澄
スエマツ ケンチョウ

明治期の政治家,評論家,文学者,法学者,子爵 衆院議員;内務相;逓信相;枢密顧問官。



生年
安政2年8月20日(1855年)

没年
大正9(1920)年10月5日

出生地
豊前国京都郡前田村(福岡県行橋市)

別名
幼名=線松,号=青萍

学歴〔年〕
東京高師中退,ケンブリッジ大学卒

学位〔年〕
文学博士〔明治21年〕,法学博士〔大正5年〕

経歴
大庄屋の家に生まれる。村上仏山の私塾・水哉園に学び、明治4年上京して「東京日日新聞」の記者に。伊藤博文の知遇をえ、官界に転じ、11年外交官として英国に留学、その間15年に「源氏物語」を英訳。19年帰国し、文部・内務省に勤務しつつ、演劇改良運動にも尽力。23年第1回総選挙で政界入り、衆院議員に連続3期当選。のち、法制局長官、貴院議員、逓信相、内務相、枢密顧問官などの要職を歴任。40年子爵。40年学士院会員。この間法律書など150編の著作があり、とくに「修訂・防長回天史」(12巻)の編纂は有名。また翻訳小説「谷間の姫百合」も人気を博した。

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改訂新版 世界大百科事典 「末松謙澄」の意味・わかりやすい解説

末松謙澄 (すえまつけんちょう)
生没年:1855-1920(安政2-大正9)

明治時代の官僚政治家。正しくは〈のりずみ〉という。福岡出身。明治初年に上京して英学を修め,《東京日日新聞》の編集を担当する。伊藤博文の知遇をえて政府に入り,工部省から太政官に移り,西南戦争には山県有朋の幕下として従軍した。1878年渡英,86年帰国して文部省に入り内務省に転じて県治局長となる。さらに国会開設とともに福岡県から代議士に当選,92年第2次伊藤内閣の法制局長官となった。さらに98年第3次伊藤内閣の逓信相,1900年には第4次伊藤内閣の内相を歴任するなど,伊藤の長女生子と結婚したことから伊藤系官僚として終始した。日露戦争中には2年間ロンドンに出張,開戦のやむなきにいたった理由や日本の文化・思想を紹介(《旭日》《日本の面影》)するなど国際世論工作に従事した。戦後,枢密顧問官,帝国学士院会員に推された。また文才にも恵まれ,《演劇改良意見》《日本文章論》などの論考やイギリス留学中には《源氏物語》の英訳,《谷間の姫百合》などの邦訳もあり,十数年をかけて《防長回天史》の編纂も担当した。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「末松謙澄」の意味・わかりやすい解説

末松謙澄【すえまつけんちょう】

明治の政治家,文学者。豊前(ぶぜん)国京都(みやこ)郡の生れ。東京日日新聞記者として名をあげ,伊藤博文の知遇を得た。ケンブリッジ大学に留学。伊藤内閣の逓信大臣,内務大臣を歴任した。また演劇改良会を設立し俳優の地位向上に努めた。《源氏物語》の英訳,ローマ法の翻訳,《日本文章論》《防長回天史》等の編著書がある。
→関連項目演劇改良会短歌

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「末松謙澄」の意味・わかりやすい解説

末松謙澄
すえまつけんちょう

[生]安政2(1855).8.20. 豊前
[没]1920.10.5. 東京
評論家,政治家。文学,法学博士。子爵。幼時から漢学,詩を学び,明治4 (1871) 年上京,東京日日新聞社に入社,伊藤博文の知遇を得て官界に入った。西南戦争に従軍中,西郷隆盛にあてた降伏勧告状は一代の名文といわれた。 1886年イギリス留学から帰国,逓信大臣,内務大臣,枢密顧問官を歴任。「演劇改良会」を組織し演劇の欧化改良を推進した。主著,イギリスの女流作家クレイの翻訳小説『谷間の姫百合』 (88~90) ,歌論集『国歌新論』 (97) など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「末松謙澄」の解説

末松謙澄 すえまつ-けんちょう

1855-1920 明治-大正時代の政治家,文学者。
安政2年8月20日生まれ。伊藤博文の娘婿。明治11年渡英,ケンブリッジ大に留学し,「源氏物語」を英訳刊行。帰国後,演劇改良運動につくす。23年衆議院議員(当選3回)。伊藤内閣の逓信相,内相。学士院会員。大正9年10月5日死去。66歳。豊前(ぶぜん)京都(みやこ)郡(福岡県)出身。号は青萍(せいひょう)。編著に「防長回天史」など。

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367日誕生日大事典 「末松謙澄」の解説

末松 謙澄 (すえまつ けんちょう)

生年月日:1855年8月20日
明治時代の政治家;評論家。貴族院議員;内務大臣
1920年没

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世界大百科事典(旧版)内の末松謙澄の言及

【演劇改良運動】より

…有職故実家による史実や時代考証の重視,道徳的規範にのっとった人物像の設定など,いわゆる〈活歴劇〉がそれで,1878年6月,勘弥の新富座開場に際して団十郎は《松栄千代田神徳(まつのさかえちよだのしんとく)》を上演したが,民衆の支持を得られなかった。しかし,条約改正問題を背景とした鹿鳴館時代の諸事万端の改良論流行の中で,86年7月,伊藤博文首相は,勘弥,団十郎,5世尾上菊五郎を招いて演劇改良の所見を示し,8月に新帰朝者で娘婿の末松謙澄を首唱者とし,外山正一,渋沢栄一を後援者に演劇改良会をつくらせた。その趣意書には,従来演劇の陋習の改良,脚本作者の地位の向上,構造完全な演技場の設立という目的が掲げられ,新聞雑誌はいっせいに演劇改良論議を掲載した。…

【防長回天史】より

…幕末・維新期の長州藩を叙述した史書。伊藤博文につらなる政治家・文化人の末松謙澄が著者。毛利家旧重臣とともに山路愛山や堺利彦らが編纂に参加し,毛利家の依頼で編纂が始められたとはいえ,客観的叙述が見られる。…

※「末松謙澄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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