江戸時代に悪所とみなされた芝居に対して,明治初年から20年代にかけて試みられたさまざまな改良運動をいう。明治政府の欧化政策や社会各分野の新時代の気運に応じて,まず興行者の12世守田勘弥と9世市川団十郎が,依田学海らの協力を得て,歌舞伎を高尚な演劇に革新することをめざした。有職故実家による史実や時代考証の重視,道徳的規範にのっとった人物像の設定など,いわゆる〈活歴劇〉がそれで,1878年6月,勘弥の新富座開場に際して団十郎は《松栄千代田神徳(まつのさかえちよだのしんとく)》を上演したが,民衆の支持を得られなかった。しかし,条約改正問題を背景とした鹿鳴館時代の諸事万端の改良論流行の中で,86年7月,伊藤博文首相は,勘弥,団十郎,5世尾上菊五郎を招いて演劇改良の所見を示し,8月に新帰朝者で娘婿の末松謙澄を首唱者とし,外山正一,渋沢栄一を後援者に演劇改良会をつくらせた。その趣意書には,従来演劇の陋習の改良,脚本作者の地位の向上,構造完全な演技場の設立という目的が掲げられ,新聞雑誌はいっせいに演劇改良論議を掲載した。推進側の見解は外山正一《演劇改良論私考》,末松謙澄《演劇改良意見》に代表されるが,残忍・卑猥な劇行為の表現をやめること,女方のかわりに女優を用いること,舞台上での義太夫や黒衣が不合理であること,台詞づかいや衣装その他を写実にすべきことなどが主張された。これに対し,坪内逍遥は第一に必要なのは脚本の改良であるべきで,それも勧善懲悪の功利主義に陥ってはならないと指摘したし,やがて帰国した森鷗外も脚本の尊重とともに歌劇とドラマの区別を訴えた。また,無一庵無二(伊藤左千夫)は上等社会のためではなく,民衆のための改良を強調して批判した。演劇改良会は翌87年4月26日に井上馨外相邸で天覧劇を実現して高尚化の第一段階を果たしたが,伊藤内閣が崩壊し,民衆との結びつきもなかったため会は消滅した。その後,88年に岡野紫水らが日本演芸矯風会を組織し,さらに日本演芸協会へと改組しつつ,改良劇場建設に拍車をかけた。こうして89年11月,歌舞伎座が開場し,改良推進派の福地桜痴と団十郎が中心になった新史劇や新舞踊劇がすすめられた。しかし,演劇改良運動は,結局は欧化熱によって歌舞伎を改革しようという政策に発し,劇場の洋式化を実現する企てに終わったのである。
→活歴物
執筆者:野村 喬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
明治前期に行われた演劇に関する欧化改良運動。従来の歌舞伎の内容を卑俗、荒唐無稽とし、劇場構造や衛生面、茶屋制度による煩瑣(はんさ)な興行制度まで改良の要ありとした。演目の設定、人物像、筋立て、扮装、装置などの時代考証を厳密にし、人物も実名とする「活歴物」が作られ9世市川団十郎を中心に上演された。
1878年(明治11)の12世守田勘弥(もりたかんや)による新富座の開場のころからその運動が顕著となり、東京府知事が俳優・作者の代表を呼び、趣旨の徹底を図った。1886年(明治19)には、首相伊藤博文、渋沢栄一ら政財界人の協力を得て、末松謙澄(すえまつけんちょう)、外山正一(とやままさかず)による演劇改良会が結成され、末松は『演劇改良意見』、外山は『演劇改良論私考』を出版した。1887年には外相井上馨邸で天覧劇を実現、1888年に日本演芸矯風会、1889年に日本演芸協会と改組され、同年、洋風建築の歌舞伎座が開場した。ここまでが、他の改良運動とも連動するピークだった。演劇改良には、依田学海(よだがっかい)、福地桜痴(ふくちおうち)らが実作も含め深くかかわったが、その趣旨には森鴎外、坪内逍遙ら知識人の批判、一般の好劇家の反発があり、1890年代に終息した。
一時的な啓蒙運動と考えられがちだが、鴎外や逍遙も改良の必要を論じており、文学、美術、音楽等隣接分野を含めた諸文化、政治的状況とも関連していた。現在では自明化している歌舞伎の保存と新作の必要という提唱や古典歌舞伎の舞台装置、扮装、人物造型や興行形式にも、その影響は及んでいる。
[神山 彰]
『神山彰著『近代演劇の来歴』(2006・森話社)』
明治前期に行われた各種の改良運動のうち,演劇にかかわる一連の動きをいう。従来の歌舞伎の卑俗・荒唐無稽な点を改め,時代考証を正確にした活歴(かつれき)劇が行われ,一方,劇場の構造や興行制度の改革などが唱えられた。1878年(明治11)の新富座開場当時から顕著な動きとなり,86年には末松謙澄(けんちょう)・外山正一(とやままさかず)らにより演劇改良会が作られ,末松の「演劇改良意見」,外山の「演劇改良論私考」が出版された。改良会は87年の天覧劇ののち,88年に日本演芸矯風会,89年に日本演芸協会と改組され,同年には洋風建築の歌舞伎座が開場した。依田学海(よだがっかい)・福地桜痴(おうち)らも深くかかわったが,多くの批判と不人気とにより明治20年代に終息した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…名優の9世市川団十郎は,明治劇団の中心人物であり,しかも進取の気性に富んでいた。そこで,同じ志を抱いていた興行師12世守田勘弥とともに劇界を代表し,政界,財界,文人たちの後援のもとに,いわゆる〈演劇改良運動〉を実践した。従来の歌舞伎の特徴であった非合理的な筋立てと卑俗な内容をやめ,誇張された様式的演技術を廃し,高尚趣味と写実的・合理的な演技術を用いて,新時代にふさわしい演劇を創り出そうとした。…
※「演劇改良運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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