ローマにおいては,はやくも前5世紀中葉に包括的法典として十二表法が制定され,その後,ローマ人の実際的性格および長期にわたる政治的安定の中から独創的な形で法および法学が発展し,とりわけ,元首政の時代にきわめて高い法文化の花が咲いた。後6世紀東ローマ皇帝ユスティニアヌス帝によりそれまでの1000年を超える法発展がローマ法大全として集大成され,これによってその内容がわれわれに伝えられる。ヨーロッパ大陸の多くの国の中世・近世において,ローマ法大全が実定法の効力をもって広く妥当すると同時に,法学研究の最も重要な対象とされ,そこから近代法の基本的概念の数多くが形成され今日に及んでおり,このことからローマ法は,ローマ社会とその法のあり方を知るためのみならず,近代の法概念に対する理解を深めるためにも重要であるとされている。古代におけるローマ法の歴史は,通常,第2次ポエニ戦争の終了(前201)およびセウェルス朝の断絶による元首政の終了(後235)をそれぞれ境として大きく3期に分けられる。
ローマの初期においては,法に関する知識は,呪術および暦作成をつかさどるところのパトリキのみによって構成された神官団collegium pontificumが秘密の知識として独占していた。これに対し,共和政移行後まもなく身分闘争の過程で平民が法の公開を要求し,その結果十二表法が制定された。十二表法は,刑法と未分化のままで復讐の観念が強く残存する不法行為法,強大な家長権,形式主義の支配など農業社会の原始的な法であり,ローマ市民にのみ適用となり,以降,解釈およびその後の若干の立法による修正はあるが,〈全公法・私法の源〉としてながく市民法の核心を形づくった。当時の法観念によれば,神々の意にそむかないで人々が有効な法律行為,訴訟を行うためには厳格に定められた言葉や方式を使うことが不可欠であり(法律訴訟ならびにネクスム(拘束行為),銅衡式売買,問答契約などの要式行為はいずれもこの観念に支配されており,〈木を切られた〉として訴えるべきところ〈ブドウの木を切られた〉といったために敗訴した例が伝えられる),それらの知識は神官団が十二表法制定後も引き続き独占した。法学はその後神官団によって展開され,その形式主義的態度から全体としては文言の厳格な解釈を行ったが,個別的には,家長権免除に見られるように十二表法解釈の形をとりつつ時代の要請にこたえた。共和政期を通じて,法律は民会による立法および前286年以降は平民会議決により制定され,この時代には債務奴隷を廃止したポエテリウス=パピリウス法Lex Poetelia Papiria(前326),奴隷,家畜その他の物に対する不法行為を包括的に規定し,近代の不法行為法規律の基礎となったアクイリウス法Lex Aquilia(伝承では前286年)などが制定された。
前3世紀初頭のフラウィウスGnaeus Flaviusによる神官団の方式書集成の公表という伝承や,コルンカニウスTiberius Corncanius(前254年に平民としてはじめて神官団長pontifex maximusに就任)による公開での法解答の開始などは,神官団による法知識の独占が終了するに至ったことを示している。法的問題をかかえる当事者は,かつて神官団にその援助を求めたのと同様に,法学者にその法律行為の実行の助力,訴訟への助言,具体的事件に対する解答を求め,法学者はこれらの依頼の解決をその重要な任務として引き受け,またとくに,法律行為,訴訟の定式化に努力し,その集成と考えうる著作が伝えられている。法学者はもっぱら営利関与を非とする元老院階級によって占められており,これらの任務をすべて無償で行い,むしろ解答助言活動による自己の名声の増大,ひいては政治的昇進を期待した。
前3世紀よりすでにローマは地中海通商の中心に立つこととなり,ローマ人にのみ適用となる厳格な形式主義の市民法では法的問題の処理は不可能となっていった。このため,とりわけ第2次ポエニ戦争の終了後,共和政期を通じて,法務官(プラエトル)は,従来の市民法を〈援助,補充,改廃する〉ために名誉法(法務官法)を積極的に発展させてこれに対応した。すなわち,前367年インペリウム(命令権)保持者として設置された法務官は訴訟掌理権jurisdictioを有し,前242年新たに設置された外人係法務官とともに,原則としてローマの訴訟すべて(ただし市場秩序に関する高等按察官の管轄は除く)について法廷手続を担当するものであった。彼らは時代の要請に応じて,誠意を基礎に諾成契約を承認し,また方式書訴訟を導入することなどによって形式主義の拘束から解放して外人に対する法的保護を拡大し(万民法),さらに,必要に応じて自己のインペリウムに基づき告示の発布,新たな方式書の承認,巧妙な擬制の利用(外人をローマ人と擬制する方式書により,盗み,不法侵害の規定を外人に対しても拡大,適用したのはその例),準訴権・事実訴権の付与,抗弁,特示命令,原状回復,占有付与,法務官問答契約などの多様な方法で法務官による法的保護をつくり出した。これらの成果は,毎年法務官がその就任に当たって掲示する告示の中に受け継がれ,告示や名誉法の法典のごとき観を呈するに至った。この名誉法は,しばしばイングランド法におけるコモン・ローに対するエクイティ(衡平法)に比較され,例外的に所有権・相続などの問題において二元的体系が生じたが,通常は市民法と互いに補い合って展開した。法務官は法的知識をとくに有しないのが大半であり,その求めに応じて法学者がさまざまの援助を行い,告示や方式書を簡潔な表現に練り上げて作成すること,あるいは,法務官の顧問団の一員として具体的事件の解決において重要な役割を果たすなど,この時期の法形成は実質的にはもっぱら法学者に負うものである。
共和政末期にギリシアの哲学,弁論術がローマの一般の教養となったが,すでに実用され,簡潔な言葉によって成り立つ法技術を持ち,また,客観的に正しい法解釈と適用に努めていた法学は,その強い伝統主義の中で核心部においてはギリシアからの影響により変更されることはなかった。ギリシアの学問,思考方法は,個別的な点においては法学に対し,共和政,元首政を通じてさまざまな影響を与えたことが十分推測されうるが,その詳細については資料の点からも具体的に論証できる部分はきわめて限られている(前93年の遺言解釈をめぐる百人審判所でのクリウス訴訟を厳格な文言解釈から意思尊重の自由解釈への転回点とする有力な見解があるが,現在ではこの見解は必ずしも肯定されていない)。この時期に活動した2人の代表的な法学者Q.M.スカエウォラ(前82没),スルピキウス・ルフスServius Sulpicius Rufus(前51年執政官,前43年没。ギリシア的教養を持ち,また《法務官告示注解》を初めて著した)はともにパトリキに属するが,共和政末1世紀にはその政治的混乱からそれまでとはまったく異なり,大半の法学者が騎士階級に属するローマ以外のイタリア出身者によって占められた。そのため,法学の混乱が見られ,カエサルはこの状況を法典制定により克服することを企図したと伝えられる。
この時代の法律は,アウグストゥス帝の元首政理念に忠実に従い重要な法律がいずれも国民立法の形式により制定されたが(その中には一連のアウグストゥスの改革立法も含まれる),1世紀中葉以降はほとんど利用されなくなり,元老院議決がこれに代わった。元老院議決は元来は政務官に対する勧告の意味を持つものであったが,その事実上の効力からしだいに法律と同様の効力を認められたものであり,元首政の下において,相続法関係をはじめ多数制定された。しかし,元首政の法形成にとりわけ大きな役割を果たしたのは法学および元首の発する勅法である。
元首は法学者に対してさまざまなやり方で対応したが,若干の例外を除き,法学は元首により大いにその展開が促進された。まず,アウグストゥス帝は解答権jus respondendiの制度を創設した。すなわち,〈元首の権威により公に解答する〉権利を元老院階級の少数の優れた法学者に付与することを始め,その見解が裁判で尊重される結果として実務に決定的な影響を及ぼし,この解答権を有する法学者により法学が元首政を通じて展開されることとなった。このことにより,元首政初めには再び法学者は元老院階級によって占められるに至り,共和政末にそのめざましい業績にもかかわらず生じた法の混乱に由来する法学に対する信頼の危機を克服する目的が達せられた。次いで,1世紀末以降,多数の法学者が帝国行政に携わった。法学者は皇帝行政の枢要な地位に就任し,それらの官職には裁判権を伴うものが少なくなく,また,元首の顧問会(当初は臨時的に設置されたが,2世紀のアントニヌス・ピウス帝以来常設のものとなった)のメンバーとしても裁判および法の形成に大きな役割を果たした。
法学者がこのように実務家として法の運用に現実に携わったことから,その著作は,具体的事例に対する解答を集めた《解答録》またはこれに類するものがその重要性,数量ともに首位を占め,《市民法注解》《法務官告示注解》がこれに次ぐ。これらの著作はいずれも実務から生まれ,また実務のために書かれており,法の思索的・体系的考察はなされていない。法学者が具体的事例について法的に重要なことがらを簡要に記述し,論理的推論,訴訟方式書の技術,新旧さまざまの組合せからなる複雑な法規を駆使して,それに対する適切な法的解決を長年練り上げられた言葉で簡潔に表現するところにローマ法学の精粋があるとされる。法学者各自の個性は,このような専門的表現の中に隠れることが多く,かつてはローマ法学者は没個性的な人物であるという見解が主張されたこともあるが,今日ではそれぞれの特色が徐々にではあるが明らかにされつつある。
古典期法学は次の3期に分けて論ぜられる。
(1)早期古典期(前27-後96) 法学者は,解答権によってのみ元首と関係があり,元首の行政に政治的影響を与えるのは法学者個人の元首との関係に基づくことに限られていた。この時期においては,法学者は共和政期と同様に私人であり,法学の方法論上も共和政後期ととくに区別されない。この時代にサビヌス派Sabinianiiとプロクルス派Proculianiiの両学派の対立が始まり,2世紀中葉まで大きな意味を有した。両学派はそれぞれ代表者を定め,法学を教授し,ローマ社会に特色的な伝統主義と師弟の結びつきからそれぞれの学説が承継されたが,個別的問題の対立にとどまり,今日では両学派の間に基本的態度において著しい相違は見いだされないといわれている。代表的法学者としてはM.A.ラベオやサビヌスMasurius Sabinus(その後の時代にきわめて大きな権威を有した《市民法論》3巻を著し,騎士階級の法学者として最初に解答権を付与された)があげられる。
(2)盛期古典期(五賢帝治下の96-180) 法学者が帝国行政に深く関与し,その実務的活動の新しい場面が広がり,以前よりさらに個別的事例の解決に重点が置かれた。その著作は,《解答録》《書簡集》《質疑録》《法学大全》と名づけられ,いずれも,若干の基本的叙述以外はもっぱらおびただしい数の具体的個別的事例を扱ったものである。この時期にローマ法学は最も高い点に達し,多数の優れた法学者が活躍した。法を〈善と衡平の術〉と定義したケルススPublius Juventius Celsus(129年2度目の執政官。その著作に《法学大全》39巻がある),ユリアヌスPaulus Salvius Julianus(148年執政官)がとくに有名である。これとは別に,法を初心者のために簡易に叙述する試みが2世紀半ばにポンポニウスSextus Pomponiusおよびガイウス(両人ともその生涯は不詳で,いずれも官職に就任せず,解答権を有せず,法学教師にとどまったものと推測されている)によりなされた。
(3)晩期古典期(おもにセウェルス朝,193-235) 先の盛期古典期半ばのハドリアヌス帝以降騎士階級の官職が帝国行政で重要性を帯び,かつまた,法学者がそれに任ぜられる傾向が生じ,これが強化されてセウェルス朝の下では,A.パピニアヌス,パウルスJulius Paulus,D.ウルピアヌスなどの指導的法学者はすべて騎士階級に属し,また,当時の最高官職である近衛長官を務めるなど法学者が全面的に皇帝行政に組み込まれた。この時期の法著作には,《質疑録》もあるが,むしろ従来の法学者の見解の集大成と加工に重点が移り,大部の著作がなされたが,一般には盛期古典期より創造性において劣るといわれる。
古典期の法形成は,また元首の発する勅法によっても行われた。すなわち,元首は政務官権限保持者として共和政におけると同じく一般的事項につき告示を発したほか,訓令(元首の官吏に対する内務的指示の形をとるが,一般的効力を持ち私人も引用しうる),勅答(官吏・私人より元首に提出された具体的法問題に対する解答で,当該事件のみならず将来にも拘束力を有する),勅裁(元首の面前での審理ののち発せられる裁判の判決)などにより皇帝による法形成が行われた。とくに,裁判における職権審理手続の導入と関連して,従来の市民法,名誉法とは異なる法的保護を開き(厳格な遺贈の形式をふむ必要のない信託遺贈はその代表例),法学や元老院議決によってさらにそれらが展開された。元首のこのような法創造も法学者の緊密な援助があってはじめて可能となったものであるが,他方,勅答は法学者の自由な解答活動と競合し,とくに時代が下るにつれそれを圧迫し,法学を衰退させる大きな要因となった。
このように,ローマ法は,主として私法について具体的な事案に対する適切な法的処理を中心に,神官団の法学者から共和政,元首政を通じ地位・意識において高いものを共有する法学者の活動・援助によって形成発展されたものであり,古典期に至ってその頂点に達した。したがって,一方では,具体的事案から切り離し(例えば,パンデクテン法学が作り上げたような)抽象的,理論的,体系的な〈ローマ法〉を論ずることは,ローマ時代に妥当した法を明らかにするという観点からは有益なことでなく,他方では,このような法学者が存在するための条件が存しないところでは,古典期法学が達成したものを維持しえないのは当然の帰結である。
なお,ローマ帝国の広大な版図の中で,ローマ法は,南フランス,スペイン,北アフリカなど帝国西部においてはしだいに普及していったのに対し,東部においては,ローマ市民権の普及,拡大,付与とは関係なく依然として従来のヘレニズム法の強い影響のもとにあったと今日では考えられている。
ディオクレティアヌス帝(在位284-305)が元首政崩壊後の混乱を収拾し即位して以降ユスティニアヌス帝(在位527-565)の時代までを法史上後古典期と呼ぶ。この時代には,国政は専制君主政となり,また,職権審理手続が唯一の裁判手続とされ,政治,社会,文化の大きな変化からもはや古典期までのような意識の高い独立の法学者を有しないのみならず,法学著作者の大部分がその名前すら伝わらないなど,ローマ法は古典期までとはまったく異なる様相をもって展開し,最後に,ユスティニアヌス帝の下でローマ法の集大成をみる。
後古典期においては,皇帝の立法が法形成の唯一の手段となり,コンスタンティヌス帝(在位306-337)以来さまざまな改革が行われた。その重点は,行政,刑法などの公法関係にあったが,家族法上もいくつかの重要な立法が行われた。国教化されたキリスト教の法に対する影響については見解が分かれるが,奴隷法,婚姻,幼児保護などに関する家族法を別にすると従来のローマ法に深い変更を加えなかったとする見解が現在では多くを占めている。
コンスタンティヌス帝治政時代までは古典期法学の伝統がなお残り,不十分ながらも古典期法文献の理解が可能であった。すなわち,理論的定式化を多く含む簡易な法学入門書で古典期法学者の名を冠したもの(《ウルピアヌス法範》《パウルス断案録》)が著され,また,法教育(および実務)の用に供するため古典期法学者の著作および勅法の精選集(《バチカン断片集》《モーセ法ローマ法対照集》)が作成された。しかし,4世紀中葉以降になると,とくに実務において複雑繊細な古典法の理解はきわめて困難となり,所有,占有,他物権の区別を失うなど,西部および東部においてそれぞれその社会に適合した卑俗法と呼ばれる簡易な法が展開し,これが勅法の中にも現れ,のちに西方では蛮族法に大きな影響を与えた。他方では,古典期法学者の見解およびそれまでに発布された多数の勅法は,その内容の理解あるいは現実に入手することが実務家の大部分にとってはきわめて困難であったにもかかわらず,なお引き続き実務において現行法として適用されるべきものと考えられていた。当時,裁判で適用される法の存在も当事者が証明すべきものとされていたこともあって,実務において何が法であるかをめぐり困難に直面した。このため,まず,古典期法学者の見解の引用を規制するいくつかの法が制定され(その中で,パピニアヌス,パウルス,ガイウス,ウルピアヌス,モデスティヌスHerennius Modestinusの5名の法学者の見解の引用に原則として制限しようとした,テオドシウス2世,ウァレンティヌス3世両帝の引用法(426)がとくに重要である),次いで,テオドシウス2世が当時の法である法学者の学説および勅法のすべてを集成することを当初企図したが達せられず,それに代えて勅法のみの集成を行い,テオドシウス法典として発布した(438)。このことは,その理念においても具体的な作業においてもユスティニアヌス帝の立法作業の先駆となった。東部においては,3世紀半ばまでその起源にさかのぼるとされるベイルートの法学校および425年首都コンスタンティノープルに新たに開設された法学校において,法実務とは直接の関係なく,古典期法学者の著作および勅法が注釈,要約,法文総合対比などの方法により研究され,その蓄積によって,再び古典法の理解がしだいに可能となっていった(その際,ギリシア的観念がどのような影響を与えたかについては見解が分かれている)。ユスティニアヌス帝は法学校のこれらの成果を背景とし,とりわけトリボニアヌスTribonianusの協力のもとに,法学説の集大成である《学説彙纂》および勅法の集成である《勅法彙纂》(両者がローマ法大全の実質を構成する)を完成させた。帝は同時に法学教育を整備したのみならず,さらに治政中多数の勅法を発し,とくに相続法に重要な改革を行った。
ローマ法大全にまとめられたローマ法はその後,ビザンティン帝国においてはとくにそのギリシア語訳を基礎として9世紀初頭に成立した《バシリカ法典》およびその抄録を通じて強い影響を与え続けた。西方では,中世初期においてはテオドシウス法典の影響が少なくないが,11世紀イタリアのボローニャにおいてローマ法が復活し,ローマ法大全が再び読まれ,また実務に適用されることとなった。以降ヨーロッパ大陸においては,注釈学派,注解学派,人文学派から19世紀のパンデクテン法学に至るまで,ローマ法源に対するその態度はさまざまであるが,それぞれ研究が推し進められ,それらの成果の中に大陸諸国の近代民事法典が成立した。日本民法典もこの系譜の中で制定されたものであり,ローマ法からの影響が随所に見いだされる。
→ローマ法の継受
執筆者:西村 重雄
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ローマ建国から6世紀のユスティニアヌス帝(在位527~565)による法典編纂(へんさん)までの約1200年にわたって展開された法。後世に計り知れないほどの大きな影響を与えたことから、継受されたローマ法を古代のローマ法と対比して、中世ローマ法、近世ローマ法などとよぶ用い方もある。古代の本来のローマ法は普通三期に分けて説明される。
[佐藤篤士]
ローマ建国から紀元前202年までで、十二表法に典型的に表れているように、家父を中心とした小家族(夫婦と子供)の農業生活を規律する狭い都市国家の法であった。したがって、法は家父の強力な権力patria patestasを中心として構成されている。土地や奴隷や牛馬など、家族生活を支える特定の重要な財産の譲渡のような法律行為を行うにも、また訴訟を行うにも定まった厳格な方式があり、それを守らないと効力が認められず、目的を達することができなかった。これらの法は市民法(ユス・キウィレius civile)とよばれ、神官によってローマ市民にだけ適用される(保護を受ける)属人法であり、ローマ市民以外の人々にはとくに取引権、通婚権を認めた場合にだけ法的保護を与えるものであった。狭い都市生活を規律する古代の法として、階級刑法やタリオ、債務奴隷制など他の古代都市国家の法と共通する仕組みが多くみられる。
[佐藤篤士]
紀元前201年から後235年までで、前古典法と古典法の時代である。ローマが第二次ポエニ戦争で勝利を得てその支配領域が飛躍的に拡大し、その結果ローマ人と外国人、外国人相互間の法律問題に対処しなければならなくなった。これらの諸問題を処理するために外人係法務官を設置し、取引法を中心として、方式にこだわらない柔軟な、外国人にも適用される万民法(ユス・ゲンティウムius gentium)が形成され、第一期の市民法を改廃・補充した。法務官は世俗の法学者を顧問として告示を発し、訴訟のための方式書をつくって保護すべき場合には訴訟を通じて積極的に救済した。このようにして、所有と占有との区別が現れ、債権・債務関係の法が多様化して、単なる意思表示だけで成立する諾成契約(売買、賃約、組合、委任)が現れるに至った。これは他の民族では近代法の形成までみられなかった現象である。法の多様化はこの第二期前半までにほぼ成し遂げられた。
元首政期Principatusに入ると、初めのうちは共和的政治体制を維持していたが、ハドリアヌス帝(在位117~128)のころから元首の一人支配の傾向が色濃くなり、元首の官僚制がつくられるようになった。元首の提案による元老院議決がなされ、やがて勅令が発せられるようになる。訴訟も、従来の方式書訴訟とともに元首の権力に基づく特別訴訟手続が現れた。このような法活動を支えたのは法学者であった。法学者たちは、サビーヌス学派とプロクルス学派というように学派を形成し、元首のためばかりでなく、一般市民の法律相談にも活動したが、しだいに特定の法学者が選ばれて元首の顧問として顧問会を形成した。顧問会は具体的な法律問題に回答を与え、ハドリアヌス帝以降、勅許回答権を与えられた法学者の回答が法的拘束力をもつものとされ、法創造に寄与した。法学校も数多く開設されて法学は隆盛を極め、ヘレニズムの影響を受けて、法を洗練し緻密(ちみつ)な理論を展開した。ある者は従来の法律を編集してこれに注釈を加え、また、ある者は初学者のために『法学提要』Institutionesを著して、これを教授した。ユスティニアヌス帝の法典『学説彙纂(いさん)』Digestaに引用された40人の法学者のうち、この時期の法学者は35人にも上っている。このような高度の理論も、自己完結的、体系的、抽象的な近代法とは異なって、非常に具体的であり、個々の事件に対する法的解決という方式をとっている。
[佐藤篤士]
236年からユスティニアヌス帝の法典編纂まで。ディオクレティアヌス帝(在位284~305)は帝国を東西に二分し(395)、それぞれに正帝と副帝を置き、専主政Dominatusを確立して中央集権的官僚国家をつくりあげた。法学による法創造にかわって皇帝の発する勅法constitutioがほとんど唯一の法源となった。法の担い手は単に読み書きのできる官僚となり、彼らは古典法の緻密(ちみつ)な法技術を理解することができず、法運用のよりどころとして法典を求めた。引用法や『テオドシウス法典』の編纂はこれにこたえたものであった。法は西部でも東部でも土着文化の影響を受けて多少の変容を遂げるに至った。また、キリスト教の影響も無視できない。6世紀前半ユスティニアヌス帝は、ローマ帝国復活の理念に基づき、すべてのローマ法源を精査し、現行法とすべき法の編纂を行った。これが中世のボローニャの注釈学派や、人文学派、近世の啓蒙(けいもう)期自然法学、パンデクテン法学などを通じて受け継がれ、ヨーロッパの近代法の形成に法素材として決定的影響を与えた。
[佐藤篤士]
『船田享二著『ローマ法』全5巻(1968~72・岩波書店)』▽『原田慶吉著『ローマ法』(1949・有斐閣)』▽『原田慶吉著『ローマ法の原理』(1967・清水弘文堂書房)』▽『吉野悟著『ローマ法とその社会』(1976・近藤出版社)』▽『柴田光蔵著『ローマ法概説』(1979・玄文社)』▽『佐藤篤士著『ローマ法史Ⅰ』(1982・敬文堂)』
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古代ローマ人が後世に残した最大の遺産の一つ。十二表法以来1000年にわたる発展をへたのち,6世紀にユスティニアヌス1世が編纂させた『ローマ法大全』は,その総決算ともいうべきもの。法学の全盛期は帝政期の2世紀前後で,ガイウス,ウルピアヌスその他の法学者が出た。のちローマ法は中世ヨーロッパに継受され,特に古代ローマ帝国の後継者をもって自任する神聖ローマ帝国はこれを全面的に受け入れた。近代に至ってもヨーロッパ各国の法はみなローマ法の影響を受け,その余波はドイツ,フランスなどの法を通じて明治時代の日本にまで及んだ。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…このほか江戸時代には楠木正成をはじめ南朝にかかわる偽文書も流布しているが,こうした文書を含めて,偽文書には偽作当時の庶民の慣習・伝説,あるいは時代の思潮が,史実の残像と交錯して表現されており,それを正確に弁別するならば,偽文書は歴史学と民俗学とを結ぶ懸橋の役割を持つ重要な史料となりうるのである。【網野 善彦】
[ヨーロッパ]
中世西ヨーロッパでは,本来ゲルマン法の支配を特徴とするアルプス以北の社会と,古典古代以来,ローマ法を継受した地中海地域のそれとは顕著な対照を示す。ローマ法の地域ではすでに12世紀,イタリアを中心に南フランスでも,皇帝や教皇の允可(いんか)を得た公証人が一定の書式に則って公正証書を作成し,すべての契約にあたって,いっさいの法律上の権利関係の変更が文書に記録され,公証人の署名と花押monogramとによって認証されることとなった。…
…また,不動産物権に関しては,その所在地法によることが広く諸国の国際私法上認められていることから,相続分割主義によれば,不動産に関する物権の準拠法と相続の準拠法が一致することになるので,後にみる相続統一主義のもつ難点を避けることができ,権利の実効性が確保されるという長所を有する。 相続統一主義は,相続を財産および身分の包括的な承継と見るローマ法の包括承継の原理を採る実質法に対応する抵触法上の立場とみることができる。この主義は,相続分割主義をしだいに圧倒して,19世紀後半にはヨーロッパ大陸の多くの国々を支配するところとなり,今日,イタリア,スペイン,オランダ,ドイツ,スウェーデン,ノルウェー,デンマーク等で採用されている。…
…しかしこの世における教会制度の改革は世俗の権力と深くかかわり,しかもドイツにおいては,世俗権力が皇帝の下に一元化されてはいないという特殊な事情があった。ドイツの領邦国家はこの時代にローマ法の継受をも利用してその国家体制を整えつつあったのである。したがってルターが,一方においてローマ・カトリックならびにそれと結びついた皇帝に抗し,他方ミュンツァーなどの過激派を否定して,騎士戦争やドイツ農民戦争の動乱の中で秩序ある改革を推し進めようとするとき,彼は反皇帝的な諸侯権力と結びつかざるをえず,ルター派の教会は,諸侯を保護者とする領邦教会という形で実現することになる。…
…ドイツ普通法とはドイツ全体に適用される法である。歴史的にその主要な部分は,12世紀以来イタリアの法学者によって学問的に加工され,実務にも用いられていたユスティニアヌス法典,すなわち継受ローマ法である。帝室裁判所令(1495)は,これを神聖ローマ帝国の普通法として,補充的効力を付与した。…
…編の表題は法律,裁判,婚姻,血族,契約,犯罪・拷問,窃盗・詐欺,暴行・傷害,逃亡者,土地の分割・時効・境界,病人・死者,職権濫用の禁止・異端追放である。内容は大半がローマ法に起源をもつ。西ゴート王国滅亡後もイスラム支配下のキリスト教徒と新たに発生したキリスト教徒国の一部(カタルニャ,後にレオン)で効力を保っていたために,8世紀以降も引き続いて写本がつくられていた。…
※「ローマ法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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