日本大百科全書(ニッポニカ) 「松平忠吉」の意味・わかりやすい解説
松平忠吉
まつだいらただよし
(1580―1607)
江戸前期の大名。幼名於次(おつぐ)、福松。下野守(しもつけのかみ)、薩摩守。徳川家康の四男。母は西郷局で、兄秀忠と同じ。1581年(天正9)病死した東条松平家忠の養子となる。小牧・長久手の戦後に人質として大坂に送られた。1590年武蔵国忍(おし)城主10万石、翌年大坂より戻る。1600年(慶長5)石田三成(みつなり)挙兵に対して、東海道を進む東軍諸将の先手大将とされ、関ヶ原の戦には舅(しゅうと)井伊直政(なおまさ)と先駆して名をあげ、負傷したという。戦後、尾張国清洲(きよす)城主となり、尾張国(知多(ちた)・海西(かいさい)2郡と中島(なかしま)郡の一部を除く)を領有。家康の代理として西国に対する。1605年従三位(じゅさんみ)・中将、1606年知多郡10万石加増。没後、無嗣断絶。遺領は、甲斐甲府城主弟義直(家康九男)が継承。
[下村信博]
『新修名古屋市史編集委員会編『新修名古屋市史 第2巻』(1998・名古屋市)』▽『『尾張清須城主松平忠吉――関ヶ原を駆け抜けた武将』(1993・名古屋市博物館)』▽『中嶋次太郎著『徳川家臣団の研究』(復刻、1981・国書刊行会)』