江戸前期の大名。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の兄結城秀康(ゆうきひでやす)の長男。母は中川一茂(かずしげ)の娘。1607年(慶長12)父秀康の領地越前(えちぜん)国福井城(67万石といわれる)を相続し、11年将軍秀忠の三女を娶(めと)る。15年(元和1)の大坂夏の陣では真田幸村(さなだゆきむら)らを討ち取り大功をたてた。その結果同年参議従三位(じゅさんみ)に進むが領地の加増はなく、恩賞の少なさに不満を抱き、その後酒色にふけり、領内で残忍な行為があるとの評判がたった。また江戸へ参勤する途中、無断で国へ帰ったりして江戸へ出府しないことが数年続いたりしたので、藩政の乱れを理由に23年豊後萩原(ぶんごはぎわら)(大分市)に流され、幕府の豊後目付(めつけ)の監視下に置かれた(越前騒動)。豊後では5000石を生活のために支給され、当地で死んだ。いわば将軍秀忠の兄の子という優越した家の抑圧の結果とみられる。なお処罰前の乱行について菊池寛が小説『忠直卿(きょう)行状記』を著したので有名となるが、かならずしも史実ではない。
[上野秀治]
『金井圓著「松平忠直」(『大名列伝 3』所収・1967・人物往来社)』
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1595~1650.9.10
江戸初期の大名。越前国北庄(きたのしょう)藩主。結城秀康の長男。徳川家康の孫。1607年(慶長12)父の遺領68万石を継ぐ。大坂夏の陣では敵将真田幸村を討ちとるなど大功をあげ,従三位参議となり,17年(元和3)越前守に改めた。しかし恩賞を不満とし,とくに家康死後は参勤を怠るなど不遜な行動がめだち,23年改易となり豊後国萩原に配流。室は徳川秀忠の女勝姫。嫡男光長は翌年越後国高田に転封。北庄は弟忠昌が継いだ。
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…秀康は下総国結城から商工人を伴って入国しているが,城下町の地子を免除し,税制や交通を整備するなど領国経営の基礎を固めた。長男松平忠直も久世騒動といわれる御家騒動を切り抜け,鳥羽野を開拓するなどの治績をあげたが,23年(元和9)乱行を理由に豊後国に配流された。ただし伝えられる忠直の乱行は多く潤色で,すべてが史実とは認められない。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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