林董(読み)はやしただす

日本大百科全書(ニッポニカ) 「林董」の意味・わかりやすい解説

林董
はやしただす
(1850―1913)

明治期の外交官嘉永(かえい)3年2月29日下総(しもうさ)国佐倉本町(千葉県佐倉市)の蘭医(らんい)で順天堂創立者の佐藤泰然の五男に生まれ、のち幕府御殿医林洞海(はやしどうかい)の養子となる。1862年(文久2)横浜に移り、ヘボンらに英語を習う。1866年(慶応2)幕府留学生としてイギリスに学ぶ。1868年(明治1)帰国し、榎本武揚(えのもとたけあき)軍に投じ箱館(はこだて)戦争に参加。1871年陸奥宗光(むつむねみつ)の推挙で明治政府に出仕、同年岩倉遣外使節一行に随行、欧米を巡回。帰国後工部、逓信(ていしん)各省から香川県知事を経て1891年外務次官となり、榎本、陸奥両外相のもとで条約改正、日清(にっしん)戦時外交に活躍。その功により1895年男爵に叙せられる。戦後は駐露公使から1900年(明治33)駐英公使となり、1902年日英同盟締結を成功させ、子爵に昇叙。1906年第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の外相となり、第三次日韓協約(保護条約)を結んだ功により伯爵に昇叙。1911年には第二次西園寺内閣の逓相となったが翌1912年辞職。政治的野心もなく、淡々とした英国式紳士としてイギリスでは高い評価を受けた。大正2年7月10日没。

[由井正臣]

『由井正臣校注『後は昔の記他 林董回顧録』(平凡社・東洋文庫)』


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朝日日本歴史人物事典 「林董」の解説

林董

没年:大正2.7.10(1913)
生年:嘉永3.2.29(1850.4.11)
明治期の政治家,外交官。佐倉藩(千葉県佐倉市)蘭方医佐藤泰然,たき子の子。幕府御典医林洞海(姉ツルの夫)の養子となる。続徳太郎に漢学を,ヘボン塾で英語を学ぶ。慶応2(1866)年幕府派遣英国留学生。同行中村正直,外山正一,菊池大麓ら。明治1(1868)年6月帰国,榎本武揚軍に投ず。3年釈放後兄松本順の紹介で陸奥宗光を頼り和歌山に行く。陸奥の神奈川県知事就任にともない神奈川県出仕。4年岩倉遣外使節一行の随行2等書記官。伊藤工部卿より工部大学校設立(東大工学部)の命を受け教師を雇い入れて帰国。工部助から工部少丞,工部権大書記官。15年宮内大書記官兼務となり熾仁親王の露国行に随行。18年官制改正により逓信大書記官,庶務局長,駅逓官,駅逓局長,内信局長。21年新設香川県の初代知事。23年兵庫県知事。露国皇太子(のちの皇帝ニコライ2世)の接待,大津事件(1891)処理にかかわった。榎本武揚外相,次いで陸奥宗光外相の下で外務次官を務め,原敬通商局長らと条約改正,日清戦争の処理に当たる。三国干渉後駐中国公使となり日清通商条約締結。男爵。29年駐露公使,33年駐英公使(のち大使)となり日英同盟締結(1902)に努力。子爵。第1次西園寺内閣の外相,伯爵。第2次西園寺内閣の逓信大臣,一時外相も兼務した。日英同盟に加え日仏協商,日露協商を成立させ列強協調態勢を作り上げた責任者のひとりである。<著作>『後は昔の記』(東洋文庫173)

(酒田正敏)

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百科事典マイペディア 「林董」の意味・わかりやすい解説

林董【はやしただす】

明治の外交官。伯爵。佐倉藩蘭医佐藤泰然の子。幕府の医官林洞海の養子。1866年渡英。戊辰戦争では,榎本武揚に従い,五稜郭の戦敗北後はしばらく禁錮。1871年外務省に出仕し,岩倉遣外使節に随行。工部省を経て,香川・兵庫の各県知事を務めた。1891年外務次官となり,条約改正に活躍。駐清・駐露公使等を歴任し,1900年より日英同盟締結に尽力。1906年外相となり,日仏協約・日露協約日韓協約を締結。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「林董」の意味・わかりやすい解説

林董
はやしただす

[生]嘉永3(1850).2.22. 江戸
[没]1913.7.10. 東京
伯爵。明治の外交官。その外交的成功の最大のものは 1902年の日英同盟締結である。慶応2 (1866) 年幕命により中村敬宇らとイギリスに留学。明治1 (68) 年帰国して榎本武揚の軍に加わり箱館戦争に参加した。榎本軍敗北により捕えられたが,同3年5月釈放されて新政府に出仕した。岩倉大使欧米巡行随員を経て,工部大書記官,太政官大書記官,香川県知事,兵庫県知事などを歴任,1891年外務次官となった。在職中,外相陸奥宗光を助け,94年不平等条約改正なかんずく日英通商航海条約締結に指導的な役割を果し,さらに日清戦争終結の下関条約締結に参画した。のち,駐清公使,駐露公使を経て 1900年駐英公使となった。駐英公使在任中,ロシアの極東への膨張を押えるため,日英同盟の締結に尽力。さらに 05年駐英大使となったのち,日英同盟を攻守同盟にするための改訂にあたった。日露戦争後 06年より 08年に第1次西園寺公望内閣の外相に就任,日仏,日露,日韓協約を締結した。 11年第2次同内閣の成立により逓信相兼外相として入閣したが翌 12年内閣総辞職で辞任した。

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改訂新版 世界大百科事典 「林董」の意味・わかりやすい解説

林董 (はやしただす)
生没年:1850-1913(嘉永3-大正2)

明治期の外交官。佐倉藩蘭医佐藤泰然の五男に生まれ,のち林洞海の養子となる。若くして父と横浜に移住,ヘボン英学塾に学ぶ。1866年(慶応2)幕府留学生としてイギリスに学ぶ。帰国後榎本武揚軍に投じ,箱館敗北ののち一時禁錮となる。71年(明治4)陸奥宗光の推挙で神奈川県出仕,同年岩倉使節団に随行。帰国後工部省,逓信省,香川県知事を経て,91年外務次官となり条約改正に尽力。日清戦争では陸奥宗光外相を補佐して戦時外交を推進。95年駐清公使となり,男爵を授けられる。1902年駐英公使として日英同盟締結に功あり,子爵に昇叙。06年第1次西園寺公望内閣の外相となり,日仏協商,日露協商を締結。伯爵に昇叙。11年第2次西園寺内閣の逓信大臣となる。伊藤博文,陸奥宗光に師事し,軍部の武断外交に抵抗した。英語にすぐれ,性格は淡泊,権力に執着するところがなかった。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「林董」の解説

林董 はやし-ただす

1850-1913 明治時代の外交官,政治家。
嘉永(かえい)3年2月29日生まれ。佐藤泰然の子。林洞海の養子。幕府留学生としてイギリス留学後,箱館戦争で榎本武揚(たけあき)軍にくわわる。のち新政府にはいり,香川県知事などをへて外務次官となる。駐英公使として日英同盟締結につくした。第1次西園寺内閣の外相,第2次西園寺内閣逓信相。伯爵。大正2年7月10日死去。64歳。下総(しもうさ)佐倉(千葉県)出身。

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