植物生理化学者。薬学者柴田承桂(しょうけい)の長男として東京に生まれる。1899年(明治32)東京帝国大学理科大学植物学科を卒業、その後タケ類の形態学的研究に従事、ササ属の新設に寄与した。1907年(明治40)第一高等学校教授となり、東北帝国大学教授(1908~1909)を経て、1910年東京帝国大学理科大学講師となる。同年ドイツに留学、ライプツィヒ大学のプフェッファーのもとで植物生理学を、フランクフルトのゼンケンベルク研究所のフロイントMartin Freund(1863―1920)のもとで有機化学を学び、1912年帰国して助教授となり、1918年(大正7)から退官(1938)まで教授として日本の植物生理化学・生化学の基礎を築き、開拓者として功績を残した。1922年に植物生理化学の欧文誌『アクタ・フィトキミカ』を創刊。退官後は岩田植物生理化学研究所を主宰し、一時、徳川生物学研究所所員となり、1941年(昭和16)から資源科学研究所所長を務めた。研究業績には植物のフラボン体の研究(1918年、帝国学士院恩賜賞受賞)、ミズニラ精子の立体異性化合物に対する走化性、花の色素、多糖体、タンパク質の構造、微生物の呼吸・代謝、チトクロム、成長素、光合成など多方面にわたる生化学的研究がある。その影響のもとで田宮博、小倉安之(1910―1983)、宇佐美正一郎(1913―1995)、奥貫一男(1907―1999)、山口清三郎(1907―1953)、服部静夫(1902―1970)ら多くの植物学者が育てられた。薬学者の柴田承二は息子。
[佐藤七郎]
明治〜昭和期の生化学者 東京帝大教授;岩田植物生理化学研究所所長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
植物生理学者。日本の生化学の草分けの一人。薬学者柴田承桂の長男として東京で生まれた。1896年第一高等学校卒,99年東京帝国大学理科大学植物学科卒,大学院に進み,1907年第一高等学校教授となり,東北帝国大学農科大学(北海道大学の前身)教授を経て,10年東京帝国大学理科大学講師,同年ドイツに留学,12年東京帝国大学植物学科助教授,18年教授となり,38年定年退官後は,岩田植物生理化学研究所所長となり,徳川生物学研究所生理学研究主任,資源科学研究所所長(1941-49)を兼ねた。初期には,植物の形態学,生理学に関する研究を行い,シダ類精子の走化性に関する研究で理学博士の称号を得,その後植物生理化学分野の研究に進み,弟柴田雄次の協力を得て,アントシアンの花色変異機構に関する研究や,〈フラボン族化合物の植物界での分布や生理的意義〉の研究を行い,18年帝国学士院恩賜賞を得た。細胞呼吸のしくみについての生化学的研究や,金属錯塩の酸化酵素的作用についての研究でも著名である。22年欧文生化学論文誌《Acta Phytochimia》を創刊,多数の生化学者を育て,日本の生化学の基礎を築いた。
執筆者:道家 達将
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…異名のゴマイザサ(五枚笹)は上記のように稈の1節に葉が5枚出ることにより,ブンゴザサ(豊後笹)は大分県下に多いということによる。オカメザサ属Shibataeaは柴田桂太を記念したもので,日本と中国に各1種ずつが分布する。【小山 鉄夫】。…
※「柴田桂太」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加