大正・昭和期の陶芸家(益子焼)
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
陶芸家。川崎市溝口に生まれる。本名象二。1913年東京府立一中から東京高等工業学校窯業科へ入学,板谷波山に学び,2年先輩の河井寛次郎を知る。卒業後は京都陶磁器試験場に入り,約3年間河井とともに釉薬の試験に専念,この間,富本憲吉,バーナード・リーチ,柳宗悦らと親交,ことに柳の民芸論に共鳴する。20年リーチとイギリスへ渡りセント・アイブズで作陶生活に入るが,24年帰国後は栃木県益子町で民芸の世界に没頭,益子が従来使用していた土と7種類の釉薬だけで益子焼を革新し,さらに沖縄の赤絵や会津の磁土を加味した独自の作品を次々と生み出して世界中の陶人に広範な感化を及ぼした。55年重要無形文化財保持者に指定され,さらに多年にわたる民芸運動の功績で68年文化勲章を受章した。また柳宗悦の没後,62年から2代目日本民芸館館長として全世界の民芸品蒐集に尽力,77年彼個人の収蔵品で自宅に益子参考館を開設している。著書に《無尽蔵》《窯にまかせて》の随筆集がある。
執筆者:吉田 耕三
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陶芸家。本名は象二。神奈川県川崎生まれ。15歳のときルノワールのことばに触発されて工芸を志し、1913年(大正2)東京高等工業学校窯業科に入学。板谷波山(いたやはざん)に師事し、先輩の河井寛次郎を知る。のち京都市立陶磁器試験場に入所し釉(うわぐすり)の研究を行う。1920年、在日中のバーナード・リーチに同行して渡英し親交を深め、1924年帰国後、栃木県益子(ましこ)に築窯。同地の陶土や釉薬(ゆうやく)を基本として無作為ともみえる加飾を重厚な器に施した質朴雄勁(ゆうけい)な作風を確立し、1935年(昭和10)には独自の様式を完成した。また、大正末期より柳宗悦(むねよし)らと民芸運動を推進し、1962年(昭和37)には柳の後を継いで日本民芸館館長に就任。1955年には民芸陶器の重要無形文化財保持者に認定され、1968年には文化勲章を受章。益子に没。多くの作品は同地の益子参考館に陳列されている。
[矢部良明]
『『現代日本陶芸全集7 濱田庄司』(1981・集英社)』
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…その後,山内清男,岡田茂弘らはこの予測を踏まえ,近畿地方縄文時代前期の編年を確立した。追分町遺跡は1923年に浜田耕作によって発見され,その後十数次にわたって発掘調査が行われている。縄文時代中期末の竪穴住居址2棟,後期の配石・甕棺遺構,晩期の集石土壙墓,弥生時代中期の方形周溝墓などの遺構のほか,縄文時代晩期のトチノキ,イチイガシなどの混在する樹林跡が発見されている。…
…当時は,石器時代と以後の時代の間に人種の交替があったと考えられており,日本の先住民族はアイヌか非アイヌかという問題をめぐって論争が交わされたが,資料操作の方法が未熟で問題の解決にいたらなかった。1910年代後半に,京都大学の浜田耕作がヨーロッパで確立された考古学の方法を紹介,実践し,日本考古学もようやく厳密な学としての体裁を整える。20年代後半から第2次世界大戦にいたる間は編年学の時期といわれる。…
…赤峰付近の遺跡は,1908年鳥居竜蔵の踏査以来,その存在は古くから知られていた。35年東亜考古学会の浜田耕作らが紅山後を調査し,また56年には呂遵諤,裴文中らが紅山後の北大溝と紅山前を調査した。紅山後は赤峰市の東北6km,英金河畔にある高さ200mの紅山と呼ばれる花コウ岩の丘陵の東麓一帯にある黄土台地で,第1次文化の住地,第2次文化の住地と墓が発見された。…
※「浜田庄司」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
働き手が自分の働きたい時間に合わせて短時間・単発の仕事に就くこと。「スポットワーク」とも呼ばれる。単発の仕事を請け負う働き方「ギグワーク」のうち、雇用契約を結んで働く形態を指す場合が多い。働き手と企...
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