平安末期の公卿(くぎょう)。従三位(じゅさんみ)藤原忠隆(ただたか)の四男。母は鳥羽(とば)院近臣民部卿(みんぶきょう)藤原顕頼(あきより)の女(むすめ)。保元(ほうげん)の乱(1156)ののち後白河(ごしらかわ)天皇の信任を得て急速に台頭、58年には正三位(しょうさんみ)権中納言(ごんちゅうなごん)兼検非違使(けびいし)別当・右衛門督(うえもんのかみ)となる。さらに大臣・近衛(このえ)大将の任官を望んだが、政敵少納言入道信西(しんぜい)(藤原通憲(みちのり))に阻止されたという(『平治(へいじ)物語』)。信西と組む平清盛(きよもり)に圧迫された源義朝(よしとも)がこの信頼と結び、翌59年(平治1)12月平治の乱を起こして敗れる。同月27日六条河原で処刑された。27歳。
[飯田悠紀子]
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1133~59.12.27
後白河上皇の近臣。鳥羽上皇の近臣忠隆の三男。母は藤原顕頼の女。同母妹は藤原基実(もとざね)の室。保元の乱後,後白河天皇の寵愛をうけ,1158年(保元3)参議,ついで権中納言右衛門督といっきょに昇進した。さらに右近衛大将を望んだが,藤原通憲(みちのり)(信西)に反対され,源義朝ら反信西派を糾合して平治の乱をおこした。信西を討ち一時政権を掌握したものの,平清盛の計略により結局敗北,京の六条河原で斬られた。
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…陣座での拝官は伊通をもって初めとする。平治の乱のさい,藤原信頼が戦功者を勝手に叙任したのを見て,〈人を多く殺した計で官位を与えるのであれば,三条殿の井は多くの人を殺している。何故その井に官位を与えないのか〉と批判したと伝える。…
…保元の乱に勝った後白河天皇は1158年(保元3)に退位して院政をはじめるが,その間に院近臣や武士のあいだに権力争いがはげしくなっていた。院権臣の信西(藤原通憲)と藤原信頼とは互いに権勢を競って対抗し,とくに信西が信頼の近衛大将の就任を阻止したことによってその抗争は深刻なものとなった。一方,武士の棟梁のなかでは,平清盛と源義朝が相互に競って中央政界への進出をはかったが,保元の乱で武勲第一の義朝が左馬頭にとどまり,清盛が播磨守・大宰大弐になったことは,義朝に大きな不満を抱かせ,その反目が鋭くなった。…
※「藤原信頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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