平安初期の女官。藤原種継の娘。はじめ藤原縄主(ただぬし)と結婚し3男2女を産んだが,娘が皇太子安殿親王(平城天皇)のもとに入内したのを機に東宮坊宣旨として仕えたが,皇太子との醜聞により桓武天皇に追放された。806年(大同1)平城天皇が即位すると尚侍(ないしのかみ)となり,809年には正三位となった。その前年,天皇は病気を理由に皇位を弟神野親王(嵯峨天皇)に譲り,上皇となった。810年健康をとりもどし重祚を望んだ上皇に,薬子は兄仲成とともに働きかけて平城還都をはかり,官人も二分し,〈二所の朝廷〉を生みだしたため,嵯峨天皇は薬子を解官し,追放した。平城上皇らは東国にむかおうとしたが兄は射殺され,上皇も剃髪するに及んで薬子も毒をあおいで自殺した。
→薬子の変
執筆者:佐藤 宗諄
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平安初期の女官。種継(たねつぐ)の女(むすめ)。平城(へいぜい)天皇の寵(ちょう)を得たが、帝の譲位後、兄仲成(なかなり)と謀りその重祚(ちょうそ)をねらって嵯峨(さが)天皇と対立、敗れて自殺。
[編集部]
?~810.9.12
平安初期の高級女官。種継の女。式家。藤原縄主(ただぬし)に嫁して3男2女をもうける。長女が皇太子安殿(あて)親王(平城天皇)の妃となると,東宮宣旨(とうぐうのせんじ)に登用される。桓武天皇に退けられる時期もあったが,平城天皇の即位後,典侍(ないしのすけ)をへて尚侍(ないしのかみ)に,位階も809年(大同4)には正三位に至る。平城の譲位後も上皇の側近として兄仲成(なかなり)と権勢をふるったため嵯峨天皇方と対立。上皇の平城京遷都命令で全面対決となり,敗れて服毒自殺した。
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…一方この前後から嵯峨天皇も健康がすぐれず,翌810年(弘仁1)の朝賀は廃止され,7月には川原寺,長岡寺での誦経や伊勢大神宮への奉幣も行われた。このような事情のなかで,平城宮で健康を回復した上皇は,東宮時代にその後宮に入り寵愛していた藤原薬子(藤原種継の娘)とその兄藤原仲成らとともに重祚(ちようそ)(退位した天皇が再び即位すること)を企てた。同年9月に,薬子らは上皇の命により平城京への還都を断行し,諸司が二分し人心騒動するという決定的な対立となった。…
※「藤原薬子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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