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薬子の変 くすこのへん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

薬子の変
くすこのへん

平安時代初期の政変。大同4 (809) 年4月,平城天皇は皇太弟神野 (かみの) 親王 (嵯峨天皇 ) に譲位したが,前帝の寵により権勢を得ていた藤原薬子と兄仲成らは,平城京への遷都,上皇の重祚 (じゅうそ) を策し,同年 12月旧都に移り,翌年6月観察使を廃するなど政治に関与した。

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デジタル大辞泉の解説

くすこ‐の‐へん【薬子の変】

弘仁元年(810)平城上皇の寵(ちょう)を得ていた藤原薬子が、兄仲成らとともに上皇の重祚(ちょうそ)平城京への遷都を企て、失敗に終わった事件。上皇は出家、薬子は自殺、仲成は殺された。

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百科事典マイペディアの解説

薬子の変【くすこのへん】

810年に起こった朝廷の内紛。嵯峨天皇即位後,藤原薬子は平城(へいぜい)上皇の権勢再現のため兄仲成(なかなり)と上皇の重祚(ちょうそ)を図って兵を挙げようとしたが,発覚して鎮圧された。
→関連項目阿保親王宇治橋嵯峨天皇高岳親王文室綿麻呂平城天皇

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世界大百科事典 第2版の解説

くすこのへん【薬子の変】

平安初期の政治的事変。809年(大同4)4月,病気のために皇位を同母弟神野親王(嵯峨天皇)に譲った平城上皇(平城天皇)は,〈病を数処に避けて五遷〉し,この年12月に平城宮に居することとなった。一方この前後から嵯峨天皇も健康がすぐれず,翌810年(弘仁1)の朝賀は廃止され,7月には川原寺,長岡寺での誦経や伊勢大神宮への奉幣も行われた。このような事情のなかで,平城宮で健康を回復した上皇は,東宮時代にその後宮に入り寵愛していた藤原薬子(藤原種継の娘)とその兄藤原仲成らとともに重祚(ちようそ)(退位した天皇が再び即位すること)を企てた。

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大辞林 第三版の解説

くすこのへん【薬子の変】

810年に起こった宮廷内の抗争事件。平城天皇の寵厚く、権勢の座にあった藤原薬子が、天皇の退位後、兄仲成とともに再度実権を握ろうとして起こした事件。嵯峨天皇の廃立、平城上皇の重祚ちようそ、平城京遷都を企てたが未然に発覚、仲成は処刑され、薬子は自殺した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

薬子の変
くすこのへん

平安時代初期に起こった平城(へいぜい)上皇と嵯峨(さが)天皇の間の抗争事件。藤原薬子(式家(しきけ))は、その女(むすめ)が春宮(とうぐう)時代の平城天皇の後宮に入った際、自分も春宮に仕え、その愛寵(あいちょう)を被り、即位後は尚侍(ないしのかみ)となり、恐憚(きょうたん)するところなく思いのままふるまっていたが、809年(大同4)病により平城天皇が嵯峨天皇に譲位すると権勢を失ったため、薬子の縁で勢力を得ていた兄仲成(なかなり)と謀り、上皇の復位をねらい、上皇と画策し、平城(へいじょう)遷都を実施しようとした。嵯峨天皇側では上皇方に対し、表面的には協力を装いながら警戒を怠らずにいたところ、810年(弘仁1)6月、上皇は突如、観察使(かんさつし)をやめて参議の号に復せとの詔(みことのり)を発し、9月に入ると平城遷都を正式に謀ってきた。嵯峨天皇はいちおう上皇の命に従い坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らを造宮使に任命したが、政令が上皇方と天皇方とから出る二所朝廷の様相を呈することになってしまったので、ついに9月10日に至り天皇は仲成を逮捕して佐渡権守(ごんのかみ)に貶降(へんこう)し、薬子を追放に処した。これに対し上皇は薬子とともに平城京から東国に向かい対抗しようとしたが、坂上田村麻呂らが迎撃態勢をとったので、やむをえず平城京に戻り剃髪(ていはつ)し、薬子は自殺した。乱は3日間で終息し、宮廷内の抗争以上を出なかったが、この変の結果、皇太子高岳(たかおか)親王は、その父が平城上皇であったために廃され、皇弟大伴(おおとも)親王が皇太弟となり、嵯峨天皇の信任厚い藤原冬嗣(ふゆつぐ)の台頭が著しく、藤原北家(ほっけ)繁栄の端緒となった。[森田 悌]
『目崎徳衛著『平安文化史論』(1968・桜楓社)』

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世界大百科事典内の薬子の変の言及

【平安時代】より

…しかし長期にわたった造都と征夷が,財政と民生を圧迫したことは否定できず,桓武天皇の没後即位した平城天皇は,財政の緊縮と民政の振興に鋭意努力した。ただその反桓武朝的な政治姿勢が,譲位後にかかわらず,平城遷都を嵯峨天皇に強要するに及び,いわゆる薬子の変を引き起こし,平城上皇は落飾出家して政界から引退せざるをえなくなった。 この騒動を克服した嵯峨は,以後30年にわたり天皇あるいは上皇として宮廷に君臨し,平安宮を〈万代の宮〉と宣言して,平安王朝の基盤を確立した。…

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