藤原種継(読み)フジワラノタネツグ

デジタル大辞泉 「藤原種継」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐たねつぐ〔ふぢはら‐〕【藤原種継】

[737~785]奈良後期の公卿宇合うまかいの孫。桓武天皇信任厚く長岡京造宮使となったが、皇太子早良親王と不和になり、造宮の視察中に暗殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原種継」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐たねつぐ【藤原種継】

  1. 奈良後期の公卿。宇合の孫。桓武天皇の信任厚く長岡京造宮使となったが、皇太子早良親王と不和になり、造宮の視察中に暗殺された。天平九~延暦四年(七三七‐七八五

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原種継」の意味・わかりやすい解説

藤原種継 (ふじわらのたねつぐ)
生没年:737-785(天平9-延暦4)

奈良末期の官人。式家藤原宇合(うまかい)の孫で,父は浄(清)成,母は秦朝元の娘ともいわれる。766年(天平神護2)従五位下となり,美作紀伊,山背の国守や近衛少将を歴任したが,とくに光仁朝末期から位階も急速に昇進し,782年(延暦1)には参議,翌年従三位式部卿兼近江按察使(あぜち),さらに784年中納言となり,ついで藤原小黒麻呂とともに遷都のために山背国乙訓(おとくに)郡長岡村の地を視察し,造長岡京使に任ぜられるなど長岡京造営の中心人物となり,遷都後の12月には正三位に叙された。桓武天皇の信任が厚く内外のことを委任されていたという。決定後半年で遷都した新京はまだ宮の中枢部分も未完成で,連日昼夜兼行で造作がすすめられ,桓武天皇が平城旧京に行幸中も留守官としてその指揮にあたっていたが,785年9月23日夜に射殺された。この事件は大伴・佐伯両氏が種継を除かんとして,大伴継人,竹良,佐伯高成らが共謀した事件と断定され,直前に死去した大伴家持も連座して官位等を奪われ,皇太子早良(さわら)親王も廃され,皇子は淡路へ移送の途次死亡した。この種継暗殺事件を契機に藤原氏太政官に占める地位が低下し,桓武天皇の権力が強化されたが,天皇は早良親王の怨霊に終生悩まされることとなる。20年後に薬子の変をおこす藤原仲成,薬子は種継の子である。桓武天皇はその死に際して正一位左大臣を贈った。
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百科事典マイペディア 「藤原種継」の意味・わかりやすい解説

藤原種継【ふじわらのたねつぐ】

奈良末期の官人。藤原宇合(うまかい)の孫。桓武天皇の信任厚く,長岡京造営の中心人物で,造営途中の長岡京で暗殺された。首謀者は事件直前に死亡した大伴家持を中心とした大伴・佐伯両氏。種継主導政治への旧族の不満があったといわれるが,皇太子早良(さわら)親王の関与が捏造され,親王は淡路配流の途中に死亡,天皇は終生その怨霊に悩まされることになる。藤原薬子は娘。
→関連項目早良親王平城天皇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原種継」の意味・わかりやすい解説

藤原種継
ふじわらのたねつぐ
(737―785)

奈良時代末期から平安時代初期の政治家。式家藤原宇合(うまかい)の孫。仲成(なかなり)、薬子(くすこ)らの父。光仁(こうにん)天皇や桓武(かんむ)天皇の即位には、叔父百川(ももかわ)らの尽力が大きく、そのため彼は桓武天皇に重用されることになった。天皇は平常の実務は種継と、同母弟である早良(さわら)皇太子に委任した。長岡造宮のことが進むにつれて、皇太子と種継の仲はしだいに悪くなった。種継が文官人事の総元締めの式部卿(しきぶきょう)であり、造宮使長官として敏腕家であり、努力家でもあったので、人々の信望が皇太子よりも種継に集中したからとみられる。785年(延暦4)9月、春宮坊(とうぐうぼう)の役人や大伴(おおとも)氏の陰謀により造宮現場で射られ翌日死没。

[中山修一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原種継」の意味・わかりやすい解説

藤原種継
ふじわらのたねつぐ

[生]天平9(737).奈良
[没]延暦4(785).9.24. 京都
奈良時代末期の廷臣。宇合の孫。清成の子。母は秦朝元の娘。天平神護2 (766) 年従五位下,美作守,伊予守,山背守,左京大夫を経て,延暦1 (782) 年参議,正四位下,桓武天皇の信任を得て権勢をふるい,同3年中納言。長岡遷都には造宮使となってこれを推進した (→長岡京 ) 。翌年天皇の奈良行幸の留守に,遷都反対派の大伴継人らに殺された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原種継」の解説

藤原種継
ふじわらのたねつぐ

737~785.9.24

種嗣とも。奈良後期の公卿。宇合(うまかい)の孫。清成の子。母は秦朝元の女。式家。766年(天平神護2)従五位下に叙され,近衛少将・左衛士督などをへて,782年(延暦元)参議。式部卿・近江按察使(あぜち)を歴任し,784年1月中納言に昇る。桓武天皇の信任あつく,6月に造長岡宮使になり造都に尽力した。遷都後の785年,桓武の留守中に大伴継人(つぐひと)らに射殺される。正一位左大臣を贈られ,のち太政大臣を追贈される。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原種継」の解説

藤原種継 ふじわらの-たねつぐ

737-785 奈良時代の公卿(くぎょう)。
天平(てんぴょう)9年生まれ。式家藤原清成の子。母は秦朝元(はたの-ちょうげん)の娘。桓武(かんむ)天皇に信任され,延暦(えんりゃく)元年参議。2年式部卿をかね,3年中納言となり正三位にすすむ。長岡京遷都を主導し,造長岡宮使として工事を推進。反対派の大伴継人(つぐひと)らに,延暦4年9月24日暗殺された。49歳。贈正一位左大臣,のち贈太政大臣。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原種継」の解説

藤原種継
ふじわらのたねつぐ

737〜785
奈良末期の公卿
式家の宇合 (うまかい) の孫。桓武天皇の信任をうけ権勢をふるった。784年造長岡宮使として長岡京遷都を強行したが,翌年造営工事監督中,反対派のため暗殺された。大伴・佐伯氏ら数十人が処罰され,早良親王が皇太子を廃された。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原種継の言及

【早良親王】より

…781年(天応1)に兄山部親王が桓武天皇として即位するにともない,皇太子となる。これは光仁天皇の意図によるものともいわれ,また時の権勢家藤原種継と対立していたとも伝えられている。785年(延暦4)9月に種継暗殺事件がおこると,犯人として捕らえられた大伴継人,佐伯高成らが,大伴家持のことばとして,種継を除く計画を早良親王にはかって計画し,実行したと自白したため,内裏から東宮にもどったところを捕らえられ,乙訓寺に幽閉された。…

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

※「藤原種継」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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