近衛前久(読み)コノエサキヒサ

精選版 日本国語大辞典 「近衛前久」の意味・読み・例文・類語

このえ‐さきひさ【近衛前久】

  1. 戦国・安土桃山・江戸初期の公卿。関白、太政大臣。稙家の子。前名晴嗣、のち前嗣。道号龍山長尾景虎を頼って越後に行き、のち織田信長、さらに徳川家康を頼る。神道、有職故実通じ、歌、書にすぐれ、地方文化に寄与。天文五~慶長一七年(一五三六‐一六一二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「近衛前久」の意味・わかりやすい解説

近衛前久
このえさきひさ
(1536―1612)

戦国・安土(あづち)桃山時代の公家(くげ)。稙家(たねいえ)の長子。1540年(天文9)元服、将軍足利義晴(あしかがよしはる)の偏諱(へんき)を受け晴嗣(はるつぐ)と称す。41年従三位(じゅさんみ)、45年権大納言(ごんだいなごん)。46年後奈良(ごなら)天皇の猶子(ゆうし)となる。47年内大臣、53年右大臣、翌年関白・左大臣となり、翌々年前嗣(さきつぐ)と改名した。59年(永禄2)越後(えちご)から上洛(じょうらく)した長尾景虎(かげとら)(上杉謙信(けんしん))と意気投合するところあって、景虎の関東平定を促進し、その上洛を促して畿内(きない)の安定を図りたいという希望を抱き、翌年9月関白の現職のまま越後に下り、さらに関東に赴いた。しかし実現困難なことを知らされ、62年8月むなしく帰京。この年前久と改名。68年織田信長足利義昭(よしあき)を擁して上洛するや、義昭と隙(げき)を生じて出奔。摂津ついで丹波(たんば)にあって反信長勢力と通じたが、75年(天正3)6月信長の勧言をいれて帰洛。以後信長とは親密で、その要請により九州に下向し、大友・島津氏らの和議を図り、また本願寺との和睦(わぼく)などにも尽力した。82年2月太政(だいじょう)大臣。6月に本能寺の変が起こると、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉よりある嫌疑を受け、徳川家康を頼って遠江に下向。また出家して龍山と号した。翌年家康の斡旋(あっせん)により帰洛。晩年は東山慈照寺(じしょうじ)の東求堂(とうぐどう)に隠棲(いんせい)。慶長(けいちょう)17年5月8日没す。年77。和歌、連歌に優れ、書をよくし、有職故実(ゆうそくこじつ)、馬術、放鷹(ほうよう)などにも精通し、当代一流の文化人であった。

[橋本政宣]

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百科事典マイペディア 「近衛前久」の意味・わかりやすい解説

近衛前久【このえさきひさ】

戦国末期の公卿。稙家(たねいえ)の子。初め晴嗣,前嗣,1561年以後前久と称する。1554年関白となる。1559年長尾景虎(上杉謙信)と盟約を結び,翌年景虎の関東経略を支援するため関白現職のまま越後へ下り,さらに関東に入った。しかし1562年志を果たせず帰京。1568年織田信長足利義昭を奉じて上洛すると出奔したが,1575年に許されて帰京,その後は信長に協力的であった。本能寺で信長が横死すると,徳川家康を頼って遠江浜松に下向,まもなく帰京するが,帰京後も立場に窮することがあり,失意のうちに余生を送った。

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改訂新版 世界大百科事典 「近衛前久」の意味・わかりやすい解説

近衛前久 (このえさきひさ)
生没年:1536-1612(天文5-慶長17)

戦国時代末期の公卿,関白。稙家の子。初名晴嗣,前嗣。1561年(永禄4)前久と称し,82年(天正10)竜山と号した。内大臣,右大臣を経て1554年(天文23)関白となったが,将軍足利義輝の姻戚であったため武家とも交際があり,60年関白現職のまま長尾景虎(上杉謙信)の分国越後に下向し,ついで景虎とともに関東に入り,古河(こが)城に拠った。しかし景虎の関東経略が停滞したので,62年京都に帰った。足利義昭が上洛して将軍となると京都を離れ,一時薩摩の島津氏のもとにあったが,この関係で島津・織田両氏の間を斡旋し,また本願寺顕如と織田信長との和平に尽力するなど,織田政権に協力的であった。しかし本能寺の変後は再び京都を離れて徳川家康のもとに赴き,やがて帰京したが晩年は失意の状態にあった。前久は当代有数の教養人で,しかも地方に下向したため中央文化の地方への伝播に多くの寄与をしている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「近衛前久」の意味・わかりやすい解説

近衛前久
このえさきひさ

[生]天文5(1536).京都
[没]慶長17(1612).5.8. 京都
安土桃山時代の公卿。出家して龍山,東求院と号した。父は稙家,子は三藐院信尹 (→近衛信尹 ) 。越後の長尾景虎 (上杉謙信) をたずね,京都に帰って足利義昭と不和になると織田信長に頼った。天正 10 (1582) 年関白,太政大臣となったがまもなく辞し,豊臣秀吉に頼ったが,本能寺の変後不和になり,浜松に徳川家康をたずね,また晩年には子の信尹と不和になるなど不安の一生をおくった。有職故実,暦学,歌道,書道にすぐれていた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「近衛前久」の解説

近衛前久 このえ-さきひさ

1536-1612 戦国-織豊時代の公卿(くぎょう)。
天文(てんぶん)5年生まれ。近衛稙家(たねいえ)の子。天文23年関白,氏長者となり,同年左大臣に転じる。戦乱のなか織田信長ら各地の戦国大名をたよって流浪し,信長の死後に出家。和歌,書画にすぐれ,有職(ゆうそく)故実に通じ,中央文化の地方への普及に貢献した。慶長17年5月8日死去。77歳。初名は晴嗣,のち前嗣。号は東求院,竜山。

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