日本大百科全書(ニッポニカ) 「鼻山人」の意味・わかりやすい解説
鼻山人
はなさんじん
(1791―1858)
江戸後期の戯作(げさく)者。東里山人(とうりさんじん)、九陽亭(くようてい)とも号す。もと細川浪次郎(なみじろう)と称した幕府の与力(よりき)で、山東京伝の門人となり、戯作者となった。1807年(文化4)刊の合巻(ごうかん)『髑(しゃれ)た新形(しんがた)』が処女作で、合巻約70部、滑稽本(こっけいぼん)、読本(よみほん)の作もあるが、本領は洒落本(しゃれぼん)、人情本で、1817年刊の『青楼籬(まがき)の花』など、洒落本の掉尾(とうび)を飾る作品を発表するとともに、文政(ぶんせい)(1818~30)に入っては2世南仙笑楚満人(なんせんしょうそまひと)(為永春水(ためながしゅんすい))とともに人情本作者として活躍するが、天保(てんぽう)(1830~44)に入っては懐古趣味、通人的姿勢に支えられた作風から、結局は春水に及ばなかった。人情本の代表作は『蘭蝶(らんちょう)記』(1824)、『廓雑談(くるわぞうだん)』(1826)、『合世鏡(あわせかがみ)』(1834)などである。晩年は落魄(らくはく)して手品の種本を売って生活したという。
[神保五彌]
『神保五彌著『鼻山人』(『為永春水の研究』所収・1964・白日社)』