出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
イギリスの経済学者,社会改良家。オックスフォード大学卒業後,母校で教鞭をとるかたわら,ロンドンのイースト・エンドやブラッドフォードなどの工業都市で社会事業を展開。病弱のため早逝したが,のちに編集・出版されたオックスフォードにおけるその経済史の講義は,〈産業革命〉の概念を最初に確立したものとして,史学史上の記念碑的価値をもつことになった。彼の〈産業革命〉論は,その社会事業家としての問題意識と一体となって,劇的な変化,つまり革命があったこと,その結果民衆の生活水準が著しく低下したことの2点を柱としており,以後,この2点をめぐってさまざまな論争が展開される。とくに後者については,その主張はJ.H.クラッパムらの〈楽観説〉派から〈トインビー伝説〉と批判されたが,彼の立場への支持もいまだになくなってはいない。なお,イースト・エンドに現存する〈トインビー・ホールToynbee Hall〉は,その没後,1884年に彼を記念してS.A.バーネットが設立した世界最初のセツルメントである。
執筆者:川北 稔
イギリスの歴史家。〈産業革命〉概念の普及者A.トインビーの甥。オックスフォード大学で古典古代史を学び,外交官としてパリ講和会議に列席。ロンドン大学教授(1919-24)をはじめ,王立国際問題研究所研究部長,外務省調査部長を務めた。全人類史を21の文明圏のもとで包括的に把握した主著《歴史の研究》全12巻(1934-61)によって注目を集め,独自の文明評論活動を展開した。ほかに《試練に立つ文明》(1948)などの著書がある。1929,56,67年の3度にわたって来日。
執筆者:今井 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1852~83
イギリスの経済学者,社会改良家。オクスフォード大学での講義をまとめた『イギリス18世紀産業革命講義』(1884年)は「産業革命」という歴史用語を普及させるとともに,それを「激変,窮乏」としてとらえる古典的学説を生んだ。社会改良に尽力した彼を記念してロンドンにトインビー・ホールが建てられた。甥のJ.A.トインビーは20世紀の著名な歴史家。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…しかし,彼らのいう〈東方問題〉とは実に〈西方問題〉にほかならなかったといってよい。このヨーロッパ中心主義にひたった偏見に満ちた伝統と決別しようとしたのは,A.トインビーである。彼の抱負は,1923年に公刊された著書《ギリシアとトルコにおける西方問題The Western Question in Greece and Turkey》にこめられている。…
…なお,この場合のローマとは通例いわゆる西ローマ帝国を指すが,没落原因論が多様であると同様,没落時期についても西ローマ帝国が消滅した476年という伝統的年代で一致しているわけではない。A.J.トインビーやウォールバンクF.W.Walbankのように,すでに前5世紀ギリシアのポリス世界に古代文明没落の徴をみる説から,7世紀中葉以後のアラブの進出まで古代地中海世界は存続していたと説くH.ピレンヌ説までさまざまである。
[古代]
ローマ没落観は,すでにローマ興隆期から存在した。…
…
【産業革命論の変遷】
〈産業革命〉という言葉そのものは,K.マルクスやフランスのA.deトックビルらによっても用いられたが,厳密な学術用語としては,1880年代になってイギリスの社会改良家A.トインビーによって確立させられた。トインビーは,ケンブリッジで教鞭をとるかたわら,ロンドンのイースト・エンドなどのスラム改良に活躍した人物で,今もトインビー・ホールにその名をとどめている。…
※「トインビー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新