第1次大戦の戦後処理を決めた国際会議。1919年に開かれ、米国、英国、フランス、日本などがドイツとの間でベルサイユ条約を締結した。ドイツは領土の割譲や多額の賠償金支払いを課された。会議では国際連盟の設立も決まった。日本は中国・山東半島のドイツ権益を継承した。首席全権は西園寺公望。中国からドイツ権益の返還を求められたが、応じなかった。中国では、これに反発した大学生らによる反日愛国運動「五・四運動」が起きた。
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フランスのパリで開かれた講和会議は歴史上その数が多いが、そのなかでとくに有名なものは、(1)1919年の第一次世界大戦の終結に関する会議、および(2)第二次大戦後1946年7月29日から10月15日にかけてのイタリアなど旧枢軸五か国と連合国との講和会議がある。
(1)1919年(大正8)1月18日、パリのフランス外務省に27か国代表を集めて開かれた。正しくは講和予備総会とよばれ、クレマンソーを議長とした。総会は全部で6回開かれ、おもに手続上の問題を議した。重要な問題は、五大国(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本)より2名の代表が出て構成する最高会議によって決定された。なお、日本代表は西園寺公望(さいおんじきんもち)と牧野伸顕(のぶあき)であった。第2回の総会(1月25日)で国際連盟の創設が決議され、5月7日、対ドイツ講和条約草案がドイツ側に示され、微少な修正を加えただけで、6月28日ベルサイユ宮殿鏡の間で講和条約の調印式が行われた。この間会議はパリで行われたので、講和会議はパリ講和会議とよび、ドイツに対する講和条約は調印式場の名をとってベルサイユ講和条約という。
(2)この会議は、1946年7月31日講和条約草案を発表したが、関係諸国の政情不安があり講和条約の調印は遅れて、翌47年2月10日、ようやく調印が行われた。
[斉藤 孝]
第一次世界大戦後の,戦勝国の講和会議。アメリカのウィルソン大統領の「十四カ条」を原則に,1919年1月18日からパリで開かれた。会議ではその平和原則も,英仏などの既得権擁護の政策により重大な修正を受けた。領土改定,ドイツの軍備制限,賠償義務,戦争責任など重要な講和条件問題はすべて大国間で協議し,これを他の戦勝国も参加する全体会議で承認させ,その結果作成されたヴェルサイユ条約案を本会議でドイツに一方的に強要する(口頭での異議は許さず文書による応酬のみの)形式がとられた。会議の主役はロイド・ジョージ(英),クレマンソー(仏),ウィルソン(米)で,これに日伊がときに加わったが,英仏が決定的役割を演じ,ウィルソンでさえ本来の主張を貫けなかった。戦勝国であったはずのロシアの革命政権は招かれず,会議から排除された。ロシア革命の主張にも影響を受けて無併合・無償金や民族自決を原則として出発しながら,敗戦国の犠牲のうえに戦勝国側の利害追求が支配する結果となり,民族自決権はロシア革命の影響を封じこめるために,東・南欧地域に限定され,アジア,アフリカの諸民族の自決は実現されえなかった。
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第1次大戦の戦後処理のため1919年(大正8)1~6月にフランス外務省で開催された国際会議。英・仏・米の3国が中心で,ウィルソンの平和14カ条をもって戦後平和の確立を期すアメリカと,対独憎悪心の強いフランスとの妥協の産物として,会議の結果ベルサイユ条約が結ばれた。日本は南洋諸島と山東半島の旧ドイツ権益の譲渡を要求し承認されたが,後者は中国の激しい反対で後に山東問題として紛糾する。
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…首脳会談は,第1次大戦前はきわめて稀であったといってよい。第1次大戦の後始末をつけたパリ講和会議は,ウィルソン・アメリカ大統領,ロイド・ジョージ・イギリス首相,クレマンソー・フランス首相ら大国の最高責任者が集まり,対独講和条約のあり方を論議した点で,首脳会談の性格をもった。戦間期には英仏間,独伊間といった2ヵ国間の首脳会談は,交通手段の進歩もあって開催の数を増やすが,多数国間のものは少なく,1938年9月のミュンヘン会談はその例外である。…
…ウェストファリア体制がフランス革命の勃発まで100年以上,ウィーン体制が1848年の革命ないしは1854年のクリミア戦争勃発まで続いたのに比べ,はるかに短命に終わった。ベルサイユ体制がこのような性格を帯びるにいたったのは,この体制をつくりだしたパリ講和会議に参集した米英仏の三大国とその指導者たちの動きによるところが大きい。
【3巨頭と各国の動向】
第1次世界大戦の後始末をめぐる講和会議は,1919年1月18日,パリのフランス外務省での第1回総会をもって開始された。…
※「パリ講和会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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