和田英(読み)わだ・えい

朝日日本歴史人物事典 「和田英」の解説

和田英

没年:昭和4.9.26(1929)
生年:安政4.8.21(1857.10.8)
明治初年の官営富岡製糸場の伝習工女。のちに『富岡日記』と呼ばれる回想録を残した。信濃国埴科郡松代町(長野市松代町)の松代藩士横田家に生まれる。明治5(1872)年10月に開業された富岡製糸場では,指導者のフランス人に対する民衆の恐怖感のため工女の調達に困難をきわめたが,英の父横田数馬が工女募集の責任者だったこともあって,父の指示により英は国益と家の名誉のために進んで翌年春に入場した。1年3カ月の滞在ののち,郷里に帰り,まもなく開設された地元の西条村製糸場(のちの六工社)や県営長野県製糸場の教婦などとして,工女に対する技術指導に活躍した。13年陸軍軍人和田盛治と結婚し家庭の人となるが,40年ごろに『富岡日記』を執筆した。これは近代日本の息吹を知らせる貴重な記録であり,開業間もない富岡製糸場の様子がいきいきと描かれている。なお,実弟秀雄が大審院長に就任するなど,生家の横田家からはすぐれた法律家を輩出,また横田邸は国指定重要文化財として保存,公開されている。<著作>『定本 富岡日記』<参考文献>上条宏之『絹ひとすじの青春

(松村敏)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「和田英」の意味・わかりやすい解説

和田英
わだえい
(1856―1929)

製糸女工として働いた体験回想『冨岡日記』の著者。信濃国埴科(はにしな)郡松代(まつしろ)(現、長野市)において松代藩士横田数馬の次女に生れる。1873年(明治6)から翌年にかけて旧松代藩士族・平民の仲間15名とともに官営富岡製糸場に入り、フランス人教婦から器械製糸の繰糸技術を習得。帰郷後、旧松代藩士の設立した製糸場六工社(ろっこうしゃ)の製糸教師となる。1880年陸軍軍人和田盛治と結婚。1907~1913年(大正2)にかけて冨岡製糸場と六工社での思い出を綴(つづ)った。

石井寛治

『和田英著・上条宏之校訂『定本 冨岡日記』(1976・創樹社)』『上条宏之著『絹ひとすじの青春』(1978・日本放送出版協会)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「和田英」の解説

和田英 わだ-えい

1857-1929 明治時代の製糸技術者。
安政4年8月21日生まれ。信濃(しなの)(長野県)松代(まつしろ)藩士横田数馬の次女。大審院長横田秀雄の姉。明治6年官営富岡製糸場に伝習工女として応募し,一等工女となる。7年松代に創設された六工社で製糸技術を指導。13年退職して軍人和田盛治と結婚。回想記「富岡日記」をのこした。昭和4年9月26日死去。73歳。
格言など】毎朝繰場へ参るのが楽しみで夜の明けるのを待ち兼ねるくらいに思いました(「富岡日記」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「和田英」の解説

和田英
わだえい

1857.8.21~1929.9.26

英子(えいこ)・(ひでこ)とも。明治期の製糸工女。信濃国松代藩士横田数馬の次女。1873年(明治6)開業まもない官営富岡製糸場に入場,1等工女となる。翌年郷里に戻り,創立された西条村製糸場六工社などで器械製糸技術の指導に尽力した。後年その体験を「富岡日記」とよばれる回想記に残した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の和田英の言及

【富岡製糸場】より

…1872年(明治5)に開業した官営模範製糸場。政府は輸出生糸の品質低下を憂えて1870年にフランス人ブリュナPaul Brunat(1840‐1908)を雇い入れ,群馬県富岡にフランス製繰糸器械300釜を備えた大規模な模範製糸場を約20万円を費やして設立した。富岡の地が選ばれたのは優良な原料繭と豊富な水に恵まれていたためといわれる。政府内で立案・実施を担当したのは大蔵省の渋沢栄一と民部省(のち大蔵省)の尾高惇忠であり,尾高は76年まで初代所長をつとめた。…

※「和田英」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」