大平正芳内閣(読み)おおひらまさよしないかく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大平正芳内閣」の意味・わかりやすい解説

大平正芳内閣
おおひらまさよしないかく

昭和後期、大平正芳首班として組織された第一次、二次にわたる内閣

[編集部]

第一次

(1978.12.7~1979.11.9 昭和53~54)
1978年(昭和53)12月自民党総裁選に敗れ退陣した福田赳夫(ふくだたけお)内閣にかわって成立。「信頼と合意」を合いことばに独自の「部分連合論」をもって保革伯仲の政治状況に対応しようとした。また「総合安全保障戦略」「家庭基盤の充実計画」「地方田園都市計画」の三つを基本政策に掲げ、福田内閣の「タカ派」的姿勢とは対照的に、保守正統派の系譜に沿ったハト派的姿勢を強調した。しかし「鈍牛」といわれたように「善政をするより悪政をしない」ことを重視する首相大平正芳の政治体質と党内支持基盤の弱さから、国民の目には実行力に乏しい見栄えのしない政権に映った。1979年6月の東京サミットの成功などを背景に10月総選挙に臨んだが、増税問題、公費天国で世論反発を受け敗北する。

伊藤 悟]

第二次

(1979.11.9~1980.7.17 昭和54~55)
党内派閥対立による「40日間抗争」を経て成立。そこでのしこりを残したまま1980年5月16日、内閣不信任案を自民党反主流派の欠席で可決され、総選挙に突入、選挙戦中の6月12日大平の急死ピリオドを打った。

[伊藤 悟]

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百科事典マイペディア 「大平正芳内閣」の意味・わかりやすい解説

大平正芳内閣【おおひらまさよしないかく】

自由民主党単独内閣。(1)第1次。1978年12月7日〜1979年11月9日。福田赳夫内閣の後をうけて組閣。一般消費税の導入,増税による財政再建を図ったが,このため1979年の総選挙に敗北。(2)第2次。1979年11月9日〜1980年6月12日。イラン,アフガニスタン問題で,対イラン,対ソ制裁外交に踏み切ったほか,防衛力増強を打ち出した。1980年5月,内閣不信任案が可決され,衆議院解散を強行。史上初の衆・参両院同時選挙戦中の6月12日に首相が急死。→大平正芳
→関連項目小渕恵三

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大平正芳内閣」の解説

大平正芳内閣
おおひらまさよしないかく

自民党の大平正芳を首班とする内閣。

1第1次(1978.12.7~79.11.9)。いわゆる「三角大福」の派閥抗争のなか,1978年(昭和53)11月の自民党総裁選挙で,現職の総理福田赳夫(たけお)を破った大平(党幹事長)が組閣した。第5回先進国首脳会議の開催国になったが,一般消費税導入の企図は挫折した。79年10月の総選挙で敗北し,党内抗争が激化した。

2第2次(1979.11.9~80.7.17)。外交面で太平洋連帯構想などをうちだすが,総裁選以来の党内対立のしこりが残り,ソ連のアフガニスタン侵攻への対応などに忙殺された。1980年(昭和55)5月,内閣不信任案が可決され,大平は衆議院を解散した。総選挙の最中に大平は急死するが,自民党は大勝した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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