富士講(読み)フジコウ

デジタル大辞泉 「富士講」の意味・読み・例文・類語

ふじ‐こう【富士講】

富士山を信仰する農民・職人・商人で組織された講社。富士山登拝を行う。浅間講せんげんこうともいい、江戸時代後半に盛行。明治以後は扶桑教実行教などとなった。 夏》富士塚

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精選版 日本国語大辞典 「富士講」の意味・読み・例文・類語

ふじ‐こう【富士講】

〘名〙 富士山に対する信仰から浅間(せんげん)信仰が起こり、その信心者が組織した講社。信徒夏季に白衣を着て鈴を振り、六根清浄を唱えながら富士山に登り祈願する。室町時代に始まり、江戸時代、江戸を中心に町人や農民間にことに盛んで、俗に江戸富士八百八講とまで呼ばれるようになったが、神仏分離以降組織を改め、扶桑(ふそう)教、実行教、丸山教などができた。《季・夏》
※咄本・無事志有意(1798)富士講「ホンニおつりきな物が有。富士講の行衣が有。今は止になってこいつもいらねへ」

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改訂新版 世界大百科事典 「富士講」の意味・わかりやすい解説

富士講 (ふじこう)

富士山の信仰集団で,江戸時代半ばに,江戸とその周辺農村部に組織化された。伝説上の富士講の開祖は,角行(かくぎよう)といい,富士の人穴(ひとあな)で修行した修験の一人であったらしい。角行の弟子の行者たちが,江戸に出てきて布教した段階では,まだ未組織で,もっぱら祈禱中心の信仰活動であった。しかし6代目行者身禄(みろく)が出現するに及んで,富士講に大きな変化が生じた。身禄は,ミロクと訓じ,弥勒菩薩を予想させている。弥勒仏の生れ変りの存在でこの世を救うというメシアニズムが認められる。具体的な身禄の教えは,江戸の職人や中小クラスの商人たちの間で,一つの道徳律となって浸透した。身禄は1733年(享保18)6月に,富士山吉田口七合五勺の烏帽子(えぼし)岩で断食修行を行い,入滅した。この自殺行為は,当時の世相をにぎわした。そして身禄の死を一つの契機として,急速に信者が増大したのである。文献初見は,〈江戸身禄同行〉の名称で,この同行は身禄の弟子高田藤四郎によって,1736年(元文1)に成立したと伝えられている。1795年(寛政7)の町触に,〈近年富士講と唱え〉といわれ,この段階では,富士講が若い世代の信者たちにも受け入れられていたことがわかる。寛政年間(1789-1801)以降には,富士講の存在が禁令の対象となっているが,〈江戸八百八講〉と表現されているように,町内ごとに地域社会にうまく密着していた。富士講は,先達(せんだつ),講元(こうもと),世話人(せわにん)の三役によって組織され,近代以後には,扶桑教(ふそうきよう),実行教,丸山教などの神道教派になっている。
富士信仰 →弥勒信仰
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「富士講」の意味・わかりやすい解説

富士講
ふじこう

富士山信仰の講社。富士山を遠く仰ぎ見て宗教的な感慨を抱くことは、古くからあったに違いないが、中世には修験道(しゅげんどう)を中心に、関東・東海地方に富士信仰が形成されていた。近世初期に長谷川角行(はせがわかくぎょう)が教義を整え、その布教のために信徒組織をつくった。富士山登拝と寄進がおもな目的である。その後、食行身禄(じきぎょうみろく)が講社の発展を図り、江戸を中心に町人や農民に広く呼びかけた。先達(せんだつ)が霊験(れいげん)を説いて信徒を集め、先達に引率されて富士山に登拝するものである。講中の者は登拝に先だって3日または7日の精進潔斎ののち、白衣を着て鈴と金剛杖(こんごうづえ)を持ち、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)お山は晴天」などと唱えながら、行者(ぎょうじゃ)として修行のために富士山に集団登拝する。実際に登山できない人のためには、村内に富士塚などの遙拝(ようはい)所を設けた。関東にはいまも、富士山をかたどった富士塚や、登拝記念の石塔が数多くあり、地名に残ったものが多い。江戸時代には江戸八百八講といわれるほどに栄え、教派は身禄派と光清(こうせい)派に分かれたが、身禄派が優勢になった。江戸時代の末には幕府弾圧を受けた。明治以後は教派神道として再生し、扶桑(ふそう)教、実行教、丸山教、富士教の諸派に分かれた。1923年(大正12)の関東大震災以後、東京の講社は激減した。現代は個人で登る人もあり、女性も登るが、昔ながらの服装の人もある。

[井之口章次]

『岩科小一郎著『富士講の歴史――江戸庶民の山岳信仰』(1983・名著出版)』

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百科事典マイペディア 「富士講」の意味・わかりやすい解説

富士講【ふじこう】

富士を霊山として登拝する信仰組織。江戸初期に長谷川角行(かくぎょう),中期に食行身禄(じきぎょうみろく),村上光清が布教。浅間(せんげん)信仰と結び江戸八百八講と称するほど発展,深川,駒込などに模造富士もできた。金剛杖に白衣姿で〈お山は晴天,六根清浄〉と唱えて登拝。扶桑教,丸山教,実行教,富士教は富士講系教団。
→関連項目富士山六根清浄

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「富士講」の解説

富士講
ふじこう

富士山への参拝を目的とした信仰集団。富士山は原始信仰の段階から信仰の対象とされ,室町時代には登山によって祈願する登拝も行われ,長谷川角行(かくぎょう)により講も組織されたと伝える。江戸時代になると,御師(おし)の活動などで富士登拝が一般化し,中期には村上光清派と食行身禄(じきぎょうみろく)派にわかれて布教が行われたが,しだいに後者が優勢となった。身禄派は,飢饉などの社会不安が続くなかで現世利益を説き,救世や平等的考えを主張,尊王思想とも結びついて講を拡大した。このため幕府は富士登山の禁令をいくたびも出して統制。明治期以降,この思想は実行教・扶桑(ふそう)教などの新興宗教に継承された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富士講」の意味・わかりやすい解説

富士講
ふじこう

富士山を崇拝する人々によって組織された講社。浅間講ともいう。富士山へ登拝し修行することを目的とする。講員は先達,行者に統率され,白衣を着て鈴を振り,『般若心経』などを誦しつつ登山し,祈願する。江戸時代に盛んになり,村上光清派と伊藤食行派に分れたが,さらに細分化を繰返し,富士の八百八講と呼ばれるにいたった。

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世界大百科事典(旧版)内の富士講の言及

【浅間信仰】より

…中世には女人禁制の観念が発達したので,道者は男性に限定され,浅間神社信仰は男性中心に続いてきた。江戸時代中期ころより富士講信者に女性が増え,富士講は御師の一部と結びついて広く信者を集めたので,女性登山者が,他の山岳に比して多くいることも知られている。このほか,長野県浅間山や三重県朝熊(あさま)山などの各地域社と結びついた浅間信仰もあり,富士浅間とは異なる歴史をもっている。…

【富士山】より

… 《更級(さらしな)日記》には山頂に神々が集まり,人の運命を決した話があるが,中世以来,この山を崇敬する風が東日本に広まり,近世に盛行した。富士行者に引率される信者組織の富士講が各地に結成され,神霊を分祀(ぶんし)する浅間塚,富士塚がつくられた。その中心は富士山麓の大宮,村山,河口,吉田,須走の浅間(せんげん)神社で,それぞれに御師(おし)がおり,信者の富士登拝の先達をした。…

※「富士講」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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