富士山に対する信仰。富士講、浅間講など、江戸時代より発展した講組織の信仰もこれに入る。富士山そのものを神とする信仰は、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』に記されるところからも察せられるように、古くからのものであり、それを浅間神(あさまのかみ)と唱えての崇敬・信仰は、『三代実録』貞観(じょうがん)6年(864)5月の条に記された富士山の噴火のことなどにもみられるように厚いものであり、それを祀(まつ)る社(やしろ)が、その周辺に多くあったこともみられる。古代末期より全国各地に生じた修験(しゅげん)的信仰組織の発展は、当然ながら富士山にも波及し、行法(ぎょうほう)を伴う集団組織が中世末には結成され、祓詞(はらえごと)を唱え、また呪文(じゅもん)を誦(じゅ)しながら白衣(びゃくえ)をつけ、夏季に登頂して修法(しゅほう)したものとみられる。そのようななかで、長谷川角行(はせがわかくぎょう)が一行法(いちぎょうほう)を唱え、多くの信徒を得たが、1646年(正保3)富士山麓(さんろく)で他界、その門弟がそれを継承し、江戸中期には村上光清(こうせい)派、伊藤食行(じきぎょう)派などを生じたが、さらに発展して、それらより、明治以降の扶桑(ふそう)教、実行(じっこう)教などを成立させており、その信仰は現代に根強く継承されている。
[鎌田純一]
富士山に対する信仰のうち浅間神社を中心とする信仰をさしている。アサマともよばれており,本来は火山に対する名称とする説もある。富士山に関する最古の文献である都良香《富士山記》には,875年(貞観17)11月5日,山頂で白衣の美女2人が舞う姿を見たという記事があり,白い噴煙の立ち上るようすを表現していると思われる。そしてこの山神に対して〈浅間大神〉と命名している。後世浅間大神は,木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と同一視された。この女神は神話上の美姫であり大山祇(おおやまつみ)命の女であり,天孫瓊瓊杵(ににぎ)尊の妃に位置づけられている。また神仏習合の過程で,浅間大菩薩とも称された。
浅間神社は,静岡県,山梨県を中心に,関東中部地方に広く分布している。大社として分布の中心になっている神社は静岡県側は富士宮市,静岡市にあり,ほかに各登山口に神社がまつられている。山梨県側は笛吹市の旧一宮町や富士吉田市上吉田,下吉田,富士河口湖町の旧河口湖町などにある。各登山口は古代末期より富士道者たちによって開発され,道者たちは後に御師(おし)として定着し,御師集落を形成した。中世には女人禁制の観念が発達したので,道者は男性に限定され,浅間神社信仰は男性中心に続いてきた。江戸時代中期ころより富士講信者に女性が増え,富士講は御師の一部と結びついて広く信者を集めたので,女性登山者が,他の山岳に比して多くいることも知られている。このほか,長野県浅間山や三重県朝熊(あさま)山などの各地域社と結びついた浅間信仰もあり,富士浅間とは異なる歴史をもっている。
→富士信仰
執筆者:宮田 登
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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