新撰 芸能人物事典 明治~平成 「尾上 菊五郎(6代目)」の解説
尾上 菊五郎(6代目)
オノエ キクゴロウ
- 職業
- 歌舞伎俳優
- 肩書
- 日本芸術院会員〔昭和21年〕
- 本名
- 寺島 幸三
- 別名
- 初名=尾上 幸三,前名=尾上 丑之助(2代目),俳号=三朝
- 屋号
- 音羽屋
- 生年月日
- 明治18年 8月26日
- 出生地
- 東京市 日本橋区浜町(東京都 中央区)
- 経歴
- 明治の名人といわれた5代目尾上菊五郎の長男。生後間もない明治19年、尾上幸三の名で初舞台。父に芸事の手ほどきを受け、24年2代目尾上丑之助を名乗り、「愛宕浦芝浦八景」の踊子幸之助役で実質的な初舞台を踏む。13歳のとき、「仮名手本忠臣蔵」で共演した9代目市川団十郎にその将来性を見込まれ、以後3年にわたり団十郎のもとで厳しい俳優修業をした。36年父が死去したため、団十郎の後援で6代目菊五郎を襲名。38年亡父の三回忌追善興行で弁天小僧を演じ、初めて主役となるが、それ以外の大役は少なかったため、田村成義の招きで下谷二長町の市村座に出演。ここで初代中村吉右衛門と共演し、41年同座に移籍して吉右衛門とのコンビで絶大な人気を獲得し、以後明治末期から大正期を通じて“菊吉時代”“二長町時代”を現出させた。10年吉右衛門が松竹に移ったためコンビを解消。12年の関東大震災で市村座ほか東京中の劇場が焼失すると、自ら陣頭に立って歌舞伎界の再建に奔走し、13年バラックではあったものの市村座を復興させ、多くの江戸っ子を喜ばせた。14年には吉右衛門とのコンビが復活。昭和2年市村座が松竹に買収されたため、同社の所属となった。5年日本橋茅場町に日本俳優学校を創立し、校長に就任。9年自ら同校の教え子たちによる俳優学校劇団を率いて東京劇場で公演を行うなど、後進の指導にも尽力した。敗戦後の20年10月、帝劇で「銀座復興」「鏡獅子」を公演。21年日本芸術院会員。24年63歳で亡くなり、没後、歌舞伎俳優として初めて文化勲章を追贈された。当たり役は「仮名手本忠臣蔵」の勘平・お軽、「菅原伝授手習鑑」の松王丸、「義経千本桜」の忠信、「三人吉三廓初買」のお嬢吉三、「青砥稿花紅彩画判官」の弁天小僧、「伽羅先代萩」の仁木弾正など数多く、時代物、世話物の両方にすぐれ、20世紀の歌舞伎史で最も重要な名優といわれる。また、長谷川伸「一本刀土俵入」「暗闇の丑松」、宇野信夫「巷談宵宮雨」「人情噺小判一両」などの近代作家による新作でも活躍し、近代的な歌舞伎リアリズムを確立して現代歌舞伎に多大な影響を与えた。一方、舞踊にも秀で、「道成寺」「藤娘」「棒しばり」「吉野山」などを得意としたが、特に「鏡獅子」は絶品といわれ、小津安二郎による記録映画が撮られた他、平櫛田中の彫刻のモデルにもなるなど、自身の代名詞ともなった。著書に「芸」「をどり」がある。
- 受賞
- 文化勲章〔昭和24年〕
- 没年月日
- 昭和24年 7月10日 (1949年)
- 家族
- 父=尾上 菊五郎(5代目),弟=坂東 彦三郎(6代目),養子=尾上 梅幸(7代目),息子=尾上 九朗右衛門,孫=尾上 菊五郎(7代目),清元 延寿太夫(7代目)
- 親族
- 女婿=中村 勘三郎(17代目)
- 伝記
- 大向うの人々―歌舞伎座三階人情ばなし東京おぼえ帳最期の台詞―演劇人に学ぶ死の作法かぶき讃人と芸談―先駆けた俳優たち能・歌舞伎俳優たち終幕の思想―演劇人の死六代目 尾上菊五郎―全盛期の名人芸松緑芸話松緑芸話歌舞伎―過剰なる記号の森鏡獅子三代 勘九郎の挑戦―山川静夫・推理ドキュメント舞踊と身体 山川 静夫 著平山 蘆江 著北川 登園 著折口 信夫 著馬場 順 著塚本 康彦 著北川 登園 著木村 伊兵衛 撮影尾上 松緑 著尾上 松緑 著渡辺 保 著NHK取材班 著芦原 英了 著(発行元 講談社ウェッジSTUDIO CELLO中央公論新社演劇出版社朝日新聞社白水社ネスコ,文芸春秋〔発売〕講談社講談社新曜社日本放送出版協会新宿書房 ’09’09’07’04’99’94’93’93’92’89’89’87’86発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報