明治〜昭和期の彫刻家 東京美術学校教授。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
彫刻家。岡山県に生まれる。本名倬太郎。初め田仲と号した。10歳で平櫛家の養子となった。大阪で中谷省古に木彫を学び,1897年上京して高村光雲に師事した。早くから日本美術協会,東京彫工会などで活躍し,文展にも第1回展から出品した。1907年山崎朝雲,米原雲海らと日本彫刻会を結成,岡倉天心に認められた。第5回文展で《維摩一黙》が三等賞となったが,14年日本美術院の再興に参加し同人となり,《禾山笑》《転生》《五浦釣人》(天心先生像)などを発表して,院展彫刻部で指導的役割を果たした。35年帝国美術院会員,44年帝室技芸員となり,同年から52年まで東京芸術大学教授をつとめた。71年白寿を記念して平櫛田中賞が設定された。練達した彫技法による写実的作風を示し,彩色木彫が多い。代表作には《鏡獅子》などがある。
執筆者:三木 多聞
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彫刻家。岡山県生まれ。本名倬太郎。大阪で人形師中谷省古に木彫技術を、1897年(明治30)上京して高村光雲(こううん)に木彫を学んだ。早くから日本美術協会、東京彫工会などで活躍し、文展にも第1回展(1907)から出品している。1908年(明治41)岡倉天心(てんしん)の指導のもとに山崎朝雲(ちょううん)、米原雲海(よねはらうんかい)らと日本彫刻会を結成。14年には日本美術院の再興に参加、彫刻部同人として活躍した。37年(昭和12)帝国芸術院会員、44年帝室技芸員。44~52年東京芸術大学教授を務め、官展の審査員も務めた。55年(昭和30)文化功労者、62年文化勲章受章。練達した彫技法に基づく写実的な作風が特色で、おもな作品に『転生(てんしょう)』『天心先生像』『降魔』『鏡獅子(かがみじし)』などがある。69年、生地井原市に井原市立田中美術館が開設され、72年から彫刻振興のための平櫛田中賞が設定されている。
[三木多聞]
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1872.6.30~1979.12.30
明治~昭和期の木彫家。岡山県出身。旧姓田中,名は倬太郎(たくたろう)。大阪で人形師中谷豊吉に木彫技術を学び,上京して高村光雲に師事し,兄弟子米原雲海から多くを学んだ。1907年(明治40)日本彫刻会を結成,岡倉天心に認められ,日本美術院再興記念展に出品し同人となった。院展には「転生」「五浦釣人」「鏡獅子」などを発表。東京芸術大学教授として長く教育にも尽力。帝室技芸員。文化勲章受章。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…白馬会には菊地鋳太郎,小倉惣次郎が加わり,太平洋画会にはヨーロッパ留学から帰った新海(しんかい)竹太郎(1868‐1927),北村四海(しかい)(1871‐1927)が加わって後進を指導した。これらようやく盛んになりかけた洋風彫塑に対抗して,1907年,岡倉天心を会長とし,米原雲海(1869‐1925),山崎朝雲(1867‐1954),平櫛(ひらくし)田中らの新鋭木彫家6名による日本彫刻会が結成され,文展第3部には,木彫家,彫塑家が一堂に会することとなる。文展では審査員の新海竹太郎,受賞者の朝倉文夫が注目されたが,08年ロダンに師事して帰国したばかりの荻原守衛が,ロダン風の生命感にあふれた表現により識者の評価を集める。…
※「平櫛田中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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