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江戸居住者ないし江戸市民は江戸者と称し、そのなかでも生え抜きの江戸者、生粋(きっすい)の江戸市民を江戸っ子といった。江戸っ子は父母ともに3代続きの市民であることが必要条件とされた。このように絞ると、享保(きょうほう)年間(1716~36)の江戸町人人口50万のうち、江戸っ子はざっと10%にしかならなかった。「江戸っ子」ということばの初見は1771年(明和8)の川柳(せんりゅう)で、「江戸っ子のわらんじをはくらんがしさ」である。1603年(慶長8)江戸開府後、各地から浪人者その他が多数流入して江戸市井に入り込み、各町の草分けとなってから約1世紀半もたつと、蓄財も進み成長した町人ができてきた。そのころになると江戸市民の間に同郷的連帯感が強まってくるし、「江戸っ子」ということばがみられるようになる。またこの語感が彼らの気質にもあったために、寛政(かんせい)(1789~1801)以後の江戸繁栄期に普及した。
この江戸っ子の特徴としてあげられるのは、粋(いき)で勇み肌の気風、さっぱりとした態度、歯切れのよさ、金銭への執着のなさなどがあり、また浅慮でけんかっ早い点もある。「金の鯱鉾(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を産湯(うぶゆ)に浴び、おがみ搗(づ)きの米を食って、日本橋の真ん中で育った金箔(きんぱく)つきの江戸っ子だ……」が、芝居の台詞(せりふ)からきた自賛の弁。将軍家のお膝元(ひざもと)に住むという自負のある反面、排他的な誇りを含み、見栄(みえ)を張り、意地を張るという気質も強い。
江戸の経済構造が利権にからみ、ぬれ手で粟(あわ)のつかみ取りといった新興富裕層を生み、それを浪費、蕩尽(とうじん)する一面が強調され、また江戸の都市構造上頻繁に起こる火事は大商人をおびえさせた。しかし勤労層は災害もあまり苦にならず、労銀もあがり、復興景気の恩恵にあずかれるとなれば、宵越しの金をもつ必要もなかった。大工、左官、鳶(とび)の者、天秤棒(てんびんぼう)を肩にして行商する連中などの、「俺(おれ)たちゃ江戸っ子だ」という意識が強くなり、それを唯一の誇りとして「江戸っ子」を振り回して力みだしたのは文政(ぶんせい)(1818~30)のころからである。
[稲垣史生]
『『三田村鳶魚全集 第7巻』(1975・中央公論社)』▽『斉藤隆三著『江戸のすがた』(1936・雄山閣出版)』▽『石母田俊著『江戸っ子』(1966・桃源社)』▽『西山松之助著『江戸っ子』(1980・吉川弘文館)』
…これは神田をめぐる商・職の活動ぶりを示す象徴的なものでもあった。〈芝で生まれて神田で育っ〉たのが江戸っ子といわれた。日本橋の商業地区は出店が多く,使用人も上方で雇用され派遣される者が多かった。…
…下町は商工業が盛んで,経済活動の中心であるが,一方,浅草,両国等の盛場も形成されるなど,娯楽・享楽的な面でも栄えていた。そして〈江戸っ子〉ということばに象徴される,反権力性や義理人情を重んじる独特の文化と生活様式が生まれた。このことについて二葉亭四迷は〈下町育ちは山の手の人とは違ふ〉(《平凡》1907)と書いている。…
…幡随院長兵衛や花川戸助六の2代目を称して男だてを重んじ,遊里や芝居見物で荒い金づかいと奇矯な行動をして,市中の話題となった。蔵前本田の髷(まげ)に黒小袖を着け,鮫ざやの脇差をさし,河東節を口ずさみ大仰に歩く様は〈蔵前風〉とよばれ,最も江戸っ子的な風俗とされた。歌舞伎役者や音曲芸人の後援者となり,俳諧等の文芸にも大きな影響を与えたが,寛政改革の風俗取締りによって消滅した。…
…彼らは町内から手当のほか法被(はつぴ),股引(ももひき)等を渡され,平素は土木建築や町内の雑業に従事して生活の保証を得ていた。頭取を中心とする各組の団結は固く,大名火消,定火消との対抗意識も強く,しばしば抗争事件を起こすなどして,その意地・張りなどの独特の気風から,幕末には〈江戸っ子〉の代表の一つとされた。火事【池上 彰彦】。…
※「江戸っ子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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