泉藩(読み)いずみはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「泉藩」の意味・わかりやすい解説

泉藩
いずみはん

陸奥(むつ)国菊多(きくた)郡泉(福島県いわき市)に藩庁を置き、菊多、磐前(いわさき)、磐城(いわき)3郡内に領地を有した譜代(ふだい)小藩。1634年(寛永11)内藤忠興(ただおき)が磐城平(たいら)藩7万石を継いだ際、3郡内の2万石を弟政晴(まさはる)に分封して成立。2代政親(まさちか)(若年寄)のとき1668年(寛文8)に泉に居館を移し、隣村滝尻(たきじり)に城下町を造営した。1702年(元禄15)3代政森(まさもり)のとき上野(こうずけ)国(群馬県)安中(あんなか)に移封され、入れ替わりに同地より板倉重同(しげあつ)が1万5000石で入封、1746年(延享3)にはその子勝清(若年寄、のち老中)が遠江(とおとうみ)国(静岡県)相良(さがら)に移封、かわって相良より本多忠如(ただゆき)が1万5000石で入封、以来泉藩は本多氏の支配するところとなった。本多忠如の子忠籌(ただかず)は1754年(宝暦4)に16歳で襲封し、ただちに藩政改革に着手、81年(天明1)までに借財を整理したうえに1万両の蓄財に成功、その手腕を後の経世学者佐藤信淵(のぶひろ)がその著『経済要録』のなかで賞賛している。忠籌のこの財政再建策が老中松平定信(さだのぶ)に買われ、87年若年寄、翌年側用人(そばようにん)となって寛政(かんせい)の改革に参画老中格に昇進して武蔵(むさし)国埼玉、上野国勢田(せた)両郡内に5000石を加増され知行(ちぎょう)高は2万石となった。その後、忠誠(ただしげ)、忠知(ただとも)、忠徳(ただのり)、忠紀(ただとし)、忠伸(ただのぶ)と7代まで続いたが、1868年(明治1)忠紀のとき、奥羽越列藩同盟に荷担して新政府に対立したため2000石を減封され、71年、忠伸の代で廃藩。泉県、平県、磐前県を経て福島県に編入された。

庄司吉之助

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「泉藩」の意味・わかりやすい解説

泉藩
いずみはん

江戸時代陸奥国菊多郡泉地方 (福島県) を領有した譜代小藩。寛永5 (1628) 年磐城平藩主内藤忠興の弟政晴の2万石分知に始る。元禄 15 (1702) 年板倉氏1万 5000石に代り,延享3 (46) 年以後本多氏1万 5000~2万 5000石で廃藩置県に及ぶ。本多氏は江戸城帝鑑間詰。本多忠籌は老中として寛政の改革に尽した。

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デジタル大辞泉プラス 「泉藩」の解説

泉藩

陸奥国、菊多郡泉(現:福島県いわき市)を本拠地とした譜代の小藩。歴代藩主では、老中・松平定信を補佐し寛政改革に尽力した本多忠籌(ただかず)が有名。

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