石原広一郎(読み)いしはらひろいちろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「石原広一郎」の意味・わかりやすい解説

石原広一郎
いしはらひろいちろう
(1890―1970)

実業家。京都市郊外の農家に生まれる。立命館大学法科専門部卒業後、マレー半島に渡ってゴム園の経営を企てたが失敗し、鉄鉱山の開発に転じた。1920年(大正9)南洋鉱業公司(コンス)(のち石原産業(株))を設立鉄鉱石、マンガン鉱の採掘、販売を開始して成功した。その後、海運業、国内の鉱山開発、精錬工場の設立と事業を拡大し、石原産業を中心として多角的に経営を展開した。こうした事業活動のほか、南進論を積極的に唱道すると同時に、満州事変以後は大川周明らの神武会や田中国重らの明倫会などの国家主義運動に関係し、その有力な後援者となった。そのため第二次世界大戦後公職追放になったが、のち復帰し、在外資産を失った石原産業の再建を指導した。

[柴 孝夫

『『私の履歴書 経済人8』(1980・日本経済新聞社)』


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百科事典マイペディア 「石原広一郎」の意味・わかりやすい解説

石原広一郎【いしはらこういちろう】

実業家。京都府出身。立命館大卒。マレー半島で,はじめゴム園経営などに携わり,のちジョホールに鉄鉱山を発見・開発。1925年石原鉱業(のち石原産業)を設立して八幡製鉄納入満州事変後の軍需景気で海運その他に事業を拡大し,コンツェルン形成。日本の南進を唱え,軍部と積極的に関係。さらに神武会,明倫会などの右翼を後援した。公職追放解除後,石原産業社長に復帰。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石原広一郎」の解説

石原広一郎 いしはら-こういちろう

1890-1970 大正-昭和時代の実業家,国家主義者。
明治23年1月26日生まれ。マレー半島のジョホールで鉄鉱山を発見し,大正9年南洋鉱業公司(のちの石原産業)を設立。資源開発,海運業を中心に事業を拡大する。南進論をとなえて大川周明らに資金を供与,また明倫会を結成した。戦後,A級戦犯容疑をうけたが釈放され,石原産業社長に復帰。昭和45年4月16日死去。80歳。京都出身。立命館大卒。

石原広一郎 いしはら-ひろいちろう

いしはら-こういちろう

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