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石原広一郎 いしはらこういちろう

百科事典マイペディアの解説

石原広一郎【いしはらこういちろう】

実業家。京都府出身。立命館大卒。マレー半島で,はじめゴム園経営などに携わり,のちジョホールに鉄鉱山を発見・開発。1925年石原鉱業(のち石原産業)を設立して八幡製鉄納入

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

石原広一郎 いしはら-ひろいちろう

いしはら-こういちろう

石原広一郎 いしはら-こういちろう

1890-1970 大正-昭和時代の実業家,国家主義者。
明治23年1月26日生まれ。マレー半島のジョホールで鉄鉱山を発見し,大正9年南洋鉱業公司(のちの石原産業)を設立。資源開発,海運業を中心に事業を拡大する。南進論をとなえて大川周明らに資金を供与,また明倫会を結成した。戦後,A級戦犯の容疑をうけたが釈放され,石原産業社長に復帰。昭和45年4月16日死去。80歳。京都出身。立命館大卒。

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世界大百科事典 第2版の解説

いしはらこういちろう【石原広一郎】

1890‐1970(明治23‐昭和45)
昭和期の実業家・国家主義運動家。京都生れ。立命館大学法科専門部卒業後,マレー半島でゴム園を開発するかたわら鉄鉱石を発見,1920年(大正9),南洋鉱業公司(のちの石原産業)を設立した。24年には自社船での鉄鉱石輸送を始めて海運業に進出,南洋倉庫も傘下に収めた。31年(昭和6)にはジャワ定期航路に盟外配船を強行して定期船経営を開始し,太平洋航路にも進出するなど事業を発展させ,フィリピン,海南島でも銅鉄山を開発して〈南洋の鉱山王〉と呼ばれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

石原広一郎
いしはらひろいちろう
(1890―1970)

実業家。京都市郊外の農家に生まれる。立命館大学法科専門部卒業後、マレー半島に渡ってゴム園の経営を企てたが失敗し、鉄鉱山の開発に転じた。1920年(大正9)南洋鉱業公司(コンス)(のち石原産業(株))を設立、鉄鉱石、マンガン鉱の採掘、販売を開始して成功した。その後、海運業、国内の鉱山開発、精錬工場の設立と事業を拡大し、石原産業を中心として多角的に経営を展開した。こうした事業活動のほか、南進論を積極的に唱道すると同時に、満州事変以後は大川周明らの神武会や田中国重らの明倫会などの国家主義運動に関係し、その有力な後援者となった。そのため第二次世界大戦後は公職追放になったが、のち復帰し、在外資産を失った石原産業の再建を指導した。[柴 孝夫]
『『私の履歴書 経済人8』(1980・日本経済新聞社)』

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世界大百科事典内の石原広一郎の言及

【石原産業[株]】より

…本社大阪市西区。マレー半島でゴム栽培事業を行っていた石原広一郎(1890‐1970)が1919年ジョホール州でスリメダン鉱山を発見,その事業化のため20年9月大阪市に合資会社南洋鉱業公司を創設したのに始まる。24年には鉱石輸送のため海運業にも進出。…

【南進論】より

…唯一の例外は石原産業によるマレー鉄鉱石の輸入で,1926年ころには日本の鉄鉱石輸入の半分近くを占めるまでになった。その経営者である石原広一郎は,《南日本の建設》などを刊行して南方の重要性を説き,大川周明ら右翼団体とも接触を保った。しかし日本にとって日中戦争以前における南方の位置は,経済的にもイデオロギー的にも,軍事的・政治的にもそれほど高いものではなかった。…

※「石原広一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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