日本大百科全書(ニッポニカ) 「アストン」の意味・わかりやすい解説
アストン(Francis William Aston)
あすとん
Francis William Aston
(1877―1945)
イギリスの実験化学者で、かつ物理学者。バーミンガム近くのハーボーンに生まれる。メーソン・カレッジ(後のバーミンガム大学)で学んだのち、フランクランドPercy Faraday Frankland(1858―1946)のもとで化学を研究、その後J・H・ポインティングのもとで物理を学んだ。1910年にケンブリッジのキャベンディッシュ研究所でJ・J・トムソンの助手となった。第一次世界大戦中は王立航空機工場に勤め、戦後研究所に戻り、1919年にはトリニティ・カレッジの特別研究員に選ばれた。
1910年当時、トムソンは、正に荷電した粒子線(陽極線)の研究をしており、アストンはそのもとで放電管や真空ポンプの改良、放物線状の軌跡をとらえるカメラのくふうなどを行った。こうした彼の仕事は、1912年にトムソンが発表した、ネオンの陽極線が電磁場の作用で二つに分離する実験に大きく寄与した。トムソンは分離した軌跡をネオンの水素化合物と考えようとしたが、アストンはネオンの同位元素(アイソトープ)と考えた。この仮説を証明するために、アストンは、質量の違う粒子線のそれぞれを写真乾板上に集束させて線スペクトルを得る方法をくふうし1919年に質量分析器を完成した。この装置で数多くの非放射性同位元素の分離に成功し、また酸素を16.0としたとき、水素を除く元素の原子量が、のちに質量数とよばれる整数の値を近似的にとることを示した。このことは、すべての元素の原子核が共通の構成要素、プロトン(陽子)から構成されているという仮説を可能にし、研究者たちの核の構造についての興味を刺激した。
ついで原子量の質量数からのずれを精密に測定するための高精度の質量分析器を開発し、測定したずれを質量数で割った量が、質量数に対して滑らかな曲線を描くことを明らかにした(1927)。彼はこのずれを、プロトンが強く結合するために生じる質量の損失によるものと説明し、この結合エネルギーを解放するような実験の危険性を警告した。これらの見通しの正しさは、その後の多くの原子核実験で立証されている。生涯を独身で過ごした。優れた実験家であったが、共同研究を好まなかったといわれる。「質量分析による非放射性元素の同位体の発見、整数法則の発見」により、1922年にノーベル化学賞を受けた。
[川合葉子]
アストン(William George Aston)
あすとん
William George Aston
(1841―1911)
イギリスの外交官、日本学者。アイルランドのロンドンデリー近郊に生まれる。クイーンズ大学卒業。1864年(元治1)来日し、駐日イギリス領事館に勤務、1884年駐朝鮮イギリス総領事、1886年(明治19)から駐日公使館書記官となり、1889年帰国した。サトー、B・H・チェンバレンらとともに日本アジア協会会報の重要な執筆者の一人で、『日本書紀』の翻訳や、『日本文学史』(1899)、『神道』(1905)などを著して日本の古代史や宗教を西欧に紹介した。日本語についても『簡約日本口語文典』(1869)や『日本文語文典』(1872)を出すなど欧米人の日本研究において、J・J・ホフマンに次ぐ新時代を築いた。
[古田 啓 2018年6月19日]