セレウコス朝(読み)セレウコスチョウ(英語表記)Seleucid Dynasty

デジタル大辞泉 「セレウコス朝」の意味・読み・例文・類語

セレウコス‐ちょう〔‐テウ〕【セレウコス朝】

シリア王国の王朝。セレウコス1世が前312年に建国。首都はアンティオキア小アジアからインダス川までを領有し、ヘレニズム国家中で最大の国土をもった。前63年ごろ、ローマ軍に滅ぼされた。

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精選版 日本国語大辞典 「セレウコス朝」の意味・読み・例文・類語

セレウコス‐ちょう‥テウ【セレウコス朝】

  1. アレクサンドロスの部将、セレウコス一世の建てたシリア王国の王朝(前三一二‐前六三)。小アジア・シリアからインダス川までを領有し、ヘレニズム国家中、最大の版図を誇った。首都はアンティオキア。ローマの将軍ポンペイウスによって滅ぼされた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「セレウコス朝」の意味・わかりやすい解説

セレウコス朝
セレウコスちょう
Seleucid Dynasty

シリア王国とも呼ばれる。マケドニア系ギリシア人によって古代西アジアを支配した王朝 (前 312~64) 。アレクサンドロス3世 (大王)の帝国が分裂したあと,いわゆる後継者戦争が続いたが,部将の一人であったセレウコス1世バビロンを拠点とし,小アジア,メソポタミアイランアフガニスタン,インド北西部などの領土を確保し,彼の名を冠する王朝による支配を始めた。しかし正式に王を称したのは前 305/4年であった。その後,アンチオコス3世 (在位前 223~187) のときまでに,次第に領土を失い,シリアとキリキアを中心とし,オロンテス河畔のアンチオキアを首都とするヘレニズム国家になった。アンチオコス3世は内政改革を行う一方,再び領土拡大を目指したが,東方ではパルティア人勢力を増し,西方ではローマ軍が東に手を伸ばすなど,再興は一時的なもので終った。3世自身マグネシアの戦いでローマに敗れた。その後,王朝は弱体化をたどり,アンチオコス4世 (在位前 215~163) のときに安定期を迎えたが,ユダヤ,コマゲーネ,ポントスペルガモンアルメニアなどの小王国の独立を防げず,また王朝内の内紛が激化したため,結局前 64年ローマに征服され,その属州となった。その社会は,マケドニア人の支配階級とギリシア系市民 (兵士,役人,地主) が上位を占め,大部分の農民や都市下層民は先住民であった。行政上は,自治を認められた大都市のほかは,アケメネス朝ペルシア帝国のサトラピ (州) あるいはそれに似たストラテギア (将軍領) に区分されていた。宮廷と軍隊の維持費は直接,間接の税,都市や地方支配者の貢税によってまかなわれたが,農奴的身分の農民を用いた王領や王みずからの手による交易によって,マケドニア人たちは常に裕福であった。またアレクサンドロス3世 (大王) にならって都市を建設して支配の拠点とし,シリアの内陸部や海岸部の諸都市は,物資の集散地およびギリシア文化のにない手として重要な役割を果した (アンチオキア,セレウキア・ピエリアなど) 。征服王朝として同時に,常に外敵に脅かされていたので,とりわけ軍隊の重要性が大きかった。各地の都市や城塞にはマケドニア系の屯田兵が駐在したが,次第に先住民と混血する傾向にあり,代って征服された国民による部隊や傭兵が出現した。セレウコス朝の第1の意義は都市を中心にヘレニズム文明を西アジアに移植したことで,これはパルティア帝国に部分的に受継がれ,またローマ人もこれを支持した。第2に,西アジアの支配が東西貿易を活発化したことで,王朝衰退後もパルティアササン朝ペルシアによってこれが受継がれた。

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百科事典マイペディア 「セレウコス朝」の意味・わかりやすい解説

セレウコス朝【セレウコスちょう】

前305年から前64年にわたるシリアの王朝。始祖はセレウコス1世。その子アンティオコス1世の時にインド西辺から小アジアに至るアレクサンドロス遺領の大半を獲得して最盛期を迎えた。その後は内紛と外患のため不振で,前2世紀初め小アジア全域を失い,アンティオコス4世はユダヤのヘレニズム化を強行してマカベア戦争が起きた。前129年アンティオコス7世はパルティアと戦って敗死,以後北シリアの地方的王朝に転落,前64年ローマに滅ぼされた。
→関連項目アンティオキアアンティオコス[3世]シリアドゥラ・ユーロポスヘレニズムメガステネス

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改訂新版 世界大百科事典 「セレウコス朝」の意味・わかりやすい解説

セレウコス朝 (セレウコスちょう)
Seleukos

ヘレニズム時代にシリア王国を代々支配した王朝。前305-前64年。創立者はセレウコス1世。広大な領土を得て出発したが支配は安定せず,初期のセレウコス1世,アンティオコス1世より後はしだいに弱体化,アンティオコス3世,4世の治世に一時勢威をとりもどしたが,状況は再び悪化し,デメトリオス1世,アンティオコス7世による最後の努力が潰えて以後は,まったくの衰微混迷におちいった。歴代の王はアポロンの後裔と自称し,貨幣の意匠にしばしばアポロンの像を採用,またデルフォイ,デロス島,ディデュマなどの著名なアポロン神殿に奉納寄進をしている。王を神として崇拝させることは,おそらくアンティオコス1世のときに始められ,アンティオコス3世のとき王国全体で実施されるようになったらしい。エジプトのプトレマイオス朝や小アジアの諸王朝とさかんに婚姻関係を結び支配を安定させようとしたことも注目される。
シリア王国
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「セレウコス朝」の解説

セレウコス朝(セレウコスちょう)
Seleukos

前312頃~前63

セレウコス1世によって創建されたシリア王国の王朝。第4代セレウコス2世(在位前246~前225)以後は第6代アンティオコス3世,第8代アンティオコス4世などの努力もあったが,内紛と外患のために,王国は勢いを欠き,衰退の道をたどった。前63年の王国滅亡とともに王朝は第26代フィリポス2世(在位前65~前63)をもって終わった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「セレウコス朝」の解説

セレウコス朝
セレウコスちょう
Seleukos

前312〜前63
アレクサンドロス大王の後継者であるセレウコス1世が建てたシリア王国の王朝
小アジア・シリアからインダス川までを領有し,ヘレニズム国家中最大であった。首都はアンティオキア。多数の都市を建設して,ギリシア文化の東伝と東西文化交流に寄与した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「セレウコス朝」の意味・わかりやすい解説

セレウコス朝
せれうこすちょう

シリア王国

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世界大百科事典(旧版)内のセレウコス朝の言及

【ヘレニズム】より

…対外的には海上支配を追求し,またシリア王国とは国境紛争を繰り返したが,ローマとは友好関係を維持して諸王国中で最も長く独立を保った。 シリア王国ではセレウコス朝諸王が,多民族構成の広大な領域を,属州方式と都市建設によって有機的に統合しようとしたが成功せず,前3世紀半ばには東方辺境の植民ギリシア人がバクトリア王国を独立させ,同じ頃イラン系のパルティア人(パルティア)も自立して,王国の東方領域は急速に失われた。また小アジア西部ではアッタロス家のペルガモン王国が成立し,ユダヤ人も前2世紀半ばのマカベア戦争で独立して,支配範囲はさらに縮小した。…

※「セレウコス朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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