フランスの詩人、俳優、演出家。9月4日マルセイユの海運業の旧家に生まれる。5歳で髄膜炎にかかり、以後神経障害に苦しみ続けながら、高等中学時代から詩作を始める。1920年に治療のためパリに上り、リュニエ・ポーらと知り合い、翌1921年制作座で初舞台を踏み、デュランやピトエフの劇団に加わり、映画にも出演する。同時に詩集『空の双六(すごろく)』(1923)、『冥府(めいふ)の臍(へそ)』『神経の秤(はかり)』(1925)を発表。『NRF(エヌエルエフ)(新フランス評論)』の編集長リビエールとの『往復書簡』(1924)では「魂の中心的崩壊」を訴える。シュルレアリスム運動に加わったのち、1927年にビトラック、アロンとともに「ジャリ劇場」を創立して演劇の改革を叫ぶ。また『裁かるるジャンヌ』などの映画に出演しながら、「残酷演劇」の構想を固め、1935年に自作の『チェンチ一族』を演出、主演し、その実現を図る。1936年に文化の原点を求めてメキシコの先住民タラウマラを訪れるが、翌1937年アイルランド旅行中に錯乱状態となり、以後は精神科病院内で膨大な著作を残した。とくに『ファン・ゴッホ、社会の自殺者』(1947)はサント・ブーブ賞を受け、1930年代の講演や評論を集めた『演劇とその分身』(1938)も後年高く評価される。1948年3月4日パリ近郊のイブリの療養所で直腸癌(がん)のため孤独のうちに死ぬ。
近代合理主義に毒された西欧文明を否定し、東洋演劇や呪術(じゅじゅつ)など、演劇をその発生の根源にさかのぼって考え直し、功利的な言語から解放された表現に高めようとするその演劇論は、第二次世界大戦後の前衛劇などに大きな影響を与えた。
[安堂信也]
『アルトー著、安堂信也訳『演劇とその形而上学』(1965・白水社)』▽『ブロー著、安堂信也訳『アントナン・アルトー』(1976・白水社)』
フランスの詩人,演出家。1920年に故郷マルセイユからパリに出,絵画評,劇評,詩を小雑誌に発表。演劇改革運動の担い手の一人C.デュランのアトリエ座で俳優としてデビュー。シュルレアリスム運動に参加。幼少時の脳髄膜炎の後遺症に苦しみ麻薬を常用するが,《NRF(新フランス評論)》編集長J.リビエールとの《往復書簡》(1924),《冥府の臍》《神経の秤》(ともに1925)は,人間存在の基部における破壊の体験,言語の〈不能力〉について,骨髄から発する〈肉〉の叫びに満ちた告白である。アルフレッド・ジャリ劇場の創設とシュルレアリスムとの絶縁(ともに1926),C.T.ドライヤーの《裁かるるジャンヌ》やA.ガンス《ナポレオン》などの映画出演の後,俳優,演出家として西洋演劇を根底から変革しようという情熱は,31年,パリ植民地博覧会で見たバリ島の演劇の衝撃をきっかけに〈残酷演劇〉の主張となる。作家の書いた戯曲の上演ではなく,ことばを廃止するかその用い方を変えた全的身体所作による呪術的・祭儀的演劇を構想した。存在の根底に潜む混沌を肉体を通じて舞台上にはんらんさせ,ペストののっぴきならぬ暴力を演劇によみがえらせようとした。その幻視者的演劇論は《演劇とその分身》(1938)に収められ,J.L.バローらの演劇人,50年代不条理劇,60年代の肉体演劇に強い影響を与えた。その主張は古代ローマの暴君を描いた小説《エリオガバール,あるいは戴冠したアナルシスト》(1934)にもうかがえるが,残酷演劇の実践として上演した《チェンチ一族》は失敗に終わる(1935)。始原的生を求めてのメキシコ旅行(《タラフマラ族の国への旅》1937)に続くアイルランド旅行の帰路,精神錯乱の理由で強制収監。42年から南仏ロデズで電気ショック療法による凄絶(せいぜつ)な肉体の荒廃を体験。45年,パリに戻り,《モモのアルトー》《社会の自殺者ファン・ゴッホ》(ともに1947)など,言語と身体と存在の作り直しであり,現代文明の仮借ない糾弾でもある詩や散文を書いた。
執筆者:渡辺 守章
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…先に触れた多型的な関係は,市(いち)の露天の見世物の演劇体験にも通じるものであるが,それをたとえばムヌーシュキンAriane Mnouchkine(1939‐ )の太陽劇団は,《1789年》(1970)などで,広い弾薬庫の空間を使って活用してみせた。逆に,A.アルトーが残酷演劇の一要素として主張した,文字どおりに演戯が攻撃的に観客を取り囲む形は,もはや見ること自体の破壊であり,演劇を呪術的な〈行為〉に変貌させようとする。 ともあれ,舞台上に見せられているものがそのままで全体の縮図,あるいは全体に重なるものだという関係(それを修辞学では隠喩(メタフォールあるいはメタファー)の関係という)であるか,それともそこに見せられているものは部分であり,部分から全体を,見る側が構成する必要がある関係(換喩(メトニミー)の関係)であるかという対比が存在することは指摘しておいてもよいだろう。…
…フランスの詩人・演出家・俳優A.アルトーによってもたらされた演劇理念。1920年に俳優としてデビューしたアルトーは,残酷演劇実践の試みであった《チェンチ一族》の上演失敗(1935)など,実際の舞台には成果は残さず,38年に出版された〈残酷演劇宣言〉(1932発表)を含む理論書《演劇とその分身Le théâtre et son double》によって,書物を通じて新しい演劇観を啓示し,のちの演劇に多大な影響を与えた。…
…1917年に上演されたG.アポリネールのシュルレアリスム劇《ティレジアスの乳房》は,妻が男性に性転換し,一方女性になった夫が4万0049人の赤ん坊を生むという奇怪な内容だが,その独創性で50年代演劇の先駆となった。リブモン・デセーニュ,レーモン・ルーセルなどの作品,あるいは《ユビュ王》初演30年後に結成された〈アルフレッド・ジャリ劇場〉の推進者R.ビトラックとA.アルトーなどの実験的作品がその後に続く。とくにアルトーが主張した演劇における舞台言語の読み直しや,分節言語ではなく肉体言語によって空間を肉体的=物理的に埋めようとする残酷演劇の試みは,50年代前衛劇や,日本のいわゆる〈アングラ演劇〉なども含めて,その後の世界的な運動の高まりの中でしばしば見られた試みとほとんど共通のものであり,その先取りであったということができよう。…
…全体演劇とは,いわゆる心理劇のようなせりふ中心の〈部分的演劇〉に対して,演劇本来の理想の姿をまるごとの人間の生の芸術としてとらえ,そのような演劇の全体性を,具体的には台本,装置,舞踊,マイム,映像,音響,運動など,およそありとあらゆる舞台の手段を完全に利用して,一つの新しい演劇独自の言語を創造することによって回復しようとする試みである。このような演劇理念は,1910年代以降に,革命期のロシア・アバンギャルド演劇,イタリアの未来派,ドイツ表現主義,バウハウスの運動,シュルレアリスム運動などの中に部分的に見られたが,未曾有の大胆さによる全体性の概念はフランスの詩人・演出家A.アルトーが説いた〈残酷演劇〉によって結実する。彼はもともとシュルレアリスム運動の首唱者だったが,このような演劇手段の無限定な解放の中で,彼は現代文明の生活様式の底に沈澱している呪術的祭儀的感情と価値とをすくい上げ,始原のものとの接触を探求したのであった。…
…また,イギリスのE.H.G.クレーグやスイス生れのA.アッピア,ドイツのM.ラインハルトらがそれぞれに唱えた演技論・俳優論は重要であるし,フランスではJ.コポーを筆頭にC.デュランやL.ジュベらによって詩的演技が提唱・実践された。さらには,A.アルトーによる残酷演劇,またB.ブレヒトによる革新的な演劇論・演技論が新しい地平を切り拓いている。なかでも最後の2人,すなわちアルトーとブレヒトの問題提起は,現在から未来に向けての展望を得ようとする際,ことのほか重要なものであると言ってよい。…
※「アルトー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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