改訂新版 世界大百科事典 「全体演劇」の意味・わかりやすい解説
全体演劇 (ぜんたいえんげき)
théâtre total[フランス]
全体演劇とは,いわゆる心理劇のようなせりふ中心の〈部分的演劇〉に対して,演劇本来の理想の姿をまるごとの人間の生の芸術としてとらえ,そのような演劇の全体性を,具体的には台本,装置,舞踊,マイム,映像,音響,運動など,およそありとあらゆる舞台の手段を完全に利用して,一つの新しい演劇独自の言語を創造することによって回復しようとする試みである。このような演劇理念は,1910年代以降に,革命期のロシア・アバンギャルド演劇,イタリアの未来派,ドイツ表現主義,バウハウスの運動,シュルレアリスム運動などの中に部分的に見られたが,未曾有の大胆さによる全体性の概念はフランスの詩人・演出家A.アルトーが説いた〈残酷演劇〉によって結実する。彼はもともとシュルレアリスム運動の首唱者だったが,このような演劇手段の無限定な解放の中で,彼は現代文明の生活様式の底に沈澱している呪術的祭儀的感情と価値とをすくい上げ,始原のものとの接触を探求したのであった。有名なバリ島の舞踊との出会いに触発された彼は,肉体と身ぶりの言語に特別な意味を与え,また,叫び,騒音,音楽,リズム,光などを舞台上で特別に機能させることで,新しい演劇の言語の創造を試みた。彼の試みが,現実の劇場と結びつくことが無理であればあるほど,その理念は同時代のさまざまな実験をはるかに超えて,演劇の可能性を飛躍的に拡大させたのであった。
このようなアルトーの,観客を挑発し,その全体性に働きかける演劇理念を,のちに明確に〈全体演劇〉と名付けて実践したのが同じフランスの演出家・俳優J.L.バローである。彼は初め師C.デュランから,どんな細部にも不協和音を立てない調和美の演劇を学び,それを基盤にあらゆる演劇の要素を一体化し,劇場空間を一つの詩的宇宙に変容させることに成功する。53年のP.クローデル作《クリストファー・コロンブスの書物》の上演におけるバロー演出は,クローデル劇の持つ潜在的な全体性を,映画と演劇の結びつきによって実現する記念碑的なものであった。劇の筋にはめ込まれた映画は,ちょうど1枚の貨幣の表と裏のように,相対立する二つの次元(目に見えるものと見えないもの,外と内,肉体と精神,自然と超自然など)を統合しつつ観客に呈示した。映画は,舞台装置の帆の上に映写されたが,この帆は,映写幕として〈目に見える世界〉と〈目に見えない世界〉を読み解く重要な機能を持つとともに,同時に世界の統一像を志向する〈旅〉の象徴ともなった。D.ミヨーの音楽もまた,この劇の全体性を強調するのに重要な役割を演じていた。
なおアルトーが説いた現実と夢,意識と無意識が入り混じった全体演劇は,50年代後半以降にE.イヨネスコ,S.ベケット,J.ジュネ,A.アダモフなどにも影響を及ぼし,舞踊の世界ではスイスの〈モーリス・ベジャール・バレエ団〉を率いるM.ベジャールの活動の中にその流れが認められる。
執筆者:利光 哲夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報