バロー(読み)ばろー(英語表記)Jean-Louis Barrault

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バロー」の意味・わかりやすい解説

バロー
Barrault, Jean-Louis

[生]1910.9.8. ベジネ
[没]1994.1.22. パリ
フランスの俳優,演出家。画家を志してパリに上るが,1931年から C.デュランの劇団アトリエ座に学ぶ。『母をめぐりて』など前衛的習作ののち,40年コメディー・フランセーズに入り,P.クローデルの『繻子の靴』 (1943) などを演出,自演。 46年妻ルノーとともにマリニー座を本拠とする自身の劇団を結成,フランス演劇の第一人者として『ハムレット』や F.カフカの『審判』など,古典から現代戯曲まで幅広い舞台を見せた。またパントマイム役者として知られ,『天井桟敷の人々』 (45) など多数の映画にも出演。 59年テアトル・ド・フランスの初代監督となり,E.イヨネスコの『犀』 (60) などで成功したが,68年の「五月危機」で地位を失った (→オデオン座 ) 。その後モンマルトルの元レスリング・ホールで『ラブレー』 (68) を,旧オルセー駅を改造した劇場で P.クローデルの『バレアレス諸島の風の下で』 (72) などを上演したのち,80年シャンゼリゼの元スケート・リンクに新たな劇場を得た。

バロー
Barrot, (Camille-Hyacinthe-) Odilon

[生]1791.7.19. ロゼール,ビルフォール
[没]1873.8.6. セーヌエオアーズ,ブジバル
フランスの政治家王政復古期に立憲君主派としてルイ・フィリップを支持。七月王政議会では王朝的左翼として 1846~47年の改革宴会の組織者の一人となった。ルイ・ナポレオン (ナポレオン3世) によって首相に任命された (1848~49) が,そのクーデターに反対して政界を去った。第二帝政崩壊後 L.ティエールによって国事院の国務参事官に任命された (72) 。

バロー
Barrow, Errol Walton

[生]1920.1.21. バルバドス
[没]1987.6.1. ブリッジタウン
バルバドスの政治家。ハリソンロンドン両大学卒業。弁護士を経て,1949年イギリス領バルバドスの議会議員に当選。 55年民主労働党の結成に参加し,58~76年同党党首。 61年自治政府の首相となり,独立達成後 66年 12月の総選挙で再選され,初代首相となった。 71年3選され,76年まで政権を担当し,さらに 86年政権に返り咲いたが,在職中に死亡した。

バロー
Barrow, Isaac

[生]1630.10. ロンドン
[没]1677.5.4. ロンドン
イギリスの数学者。ケンブリッジ大学で文学,科学,哲学を学ぶ。 1662年ロンドンのグレシャム・カレッジ幾何学教授,63年からケンブリッジに新設されたルーカス数学教授。 69年ロンドンの勅任牧師となるため辞任,ニュートンが跡を継いだ。ルーカス教授として,数学の基礎,無限小解析,光学について講義を行う。光学の講義はニュートンに影響を与えたといわれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バロー」の意味・わかりやすい解説

バロー(Jean-Louis Barrault)
ばろー
Jean-Louis Barrault
(1910―1994)

フランスの俳優、演出家。9月8日、薬剤師の子としてパリ近郊に生まれる。画家を志してパリに出るが、シャルル・デュランのアトリエ座に入って端役を演じながらエチエンヌ・ドクルーとパントマイムに熱中した。アントナン・アルトーの影響を強く受け、1935年に前衛的なマイム劇『母をめぐって』を上演。同年から多くの映画に出演しているが、マルセル・カルネ監督の『天井桟敷(てんじょうさじき)の人々』(1944)で世界的に有名となった。一方、40年にコメディー・フランセーズに招かれて、『フェードル』の演出(1940)やクローデルの大作『繻子(しゅす)の靴』初演(1943)の演出・主演で名声を得た。46年には妻マドレーヌ・ルノーとともにルノー―バロー劇団を結成。マリニー座でレパートリー方式をとって古典から前衛劇まで幅広い演目を取り上げ、とくに、クローデルの『クリストフ・コロンの書』(1953)で「全体演劇」を主張する。59年からテアトル・ド・フランスの初代劇場長としてオデオン座を主宰するが、68年の五月革命で追われ、オルセー駅を改造した大劇場を経て、パリ北東部の新劇場テアトル・ド・ロンポワンで活躍していた。60年と77年に来日公演を行った。

[安堂信也]


バロー(Isaac Barrow)
ばろー
Isaac Barrow
(1630―1677)

イギリスの数学者。ケンブリッジ大学のルカス数学講座の初代教授(1663~1669)を経て(第2代はニュートン、近年では物理学者ディラックが後継)、大学の管理職を歴任、晩年は神学を研究した。ウォリスの記号代数的方法と対照的に幾何学的方法を守りつつ、接線問題(微分法)と求積問題(積分法)との関係(微分積分法の基本定理の原型)を得たが、その重要性についての自覚はなかった。それを自覚し、その問題を記号代数的方法で統一して微分積分学の骨組みをつくったのはニュートン、ライプニッツである。

[村田 全]

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