アルバ公(読み)アルバコウ(その他表記)Fernando Álvarez de Toledo, Duque de Alba

デジタル大辞泉 「アルバ公」の意味・読み・例文・類語

アルバ‐こう【アルバ公】

Duque de Alba》[1508~1582]スペイン将軍。フランドル総督となり、「血の審判所」を設け、エグモント伯らプロテスタントを厳しく弾圧。オランダ独立戦争のきっかけを作った。フェルナンドアルバレス=デ=トレド

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルバ公」の意味・わかりやすい解説

アルバ公
あるばこう
Fernando Álvarez de Toledo, Duque de Alba
(1507―1582)

スペインの軍人、政治家。今日も存する名門貴族アルバ家の第3代公爵。スペイン中西部アビラに生まれる。17歳のときに北部国境での対仏戦争参加、その功を国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に認められ、1546年、新教諸侯、都市を相手としたシュマルカルデン戦争指揮、翌1547年、ミュールベルクMühlbergの戦闘に勝利して、カルロスのヨーロッパ支配に大きく貢献した。1552年にはイタリアに赴き、ナポリ総督となって(1556)、フランスの攻撃に耐え、1559年、外相としてカトー・カンブレジの和約を結んだ。1567年にフランドル総督となり、当地の反スペイン運動を抑えるため「血の裁判所」とよばれた宗教裁判所を設置、エグモント伯ホールン伯ら一万数千人を処刑した。しかし、その圧制と重税政策は、オランダ独立戦争端緒をつくることになり、これを回避しようとした時の国王フェリペ2世によって帰国を命ぜられ(1573)、その後宮廷からも追放された。1580年にポルトガル征服に再び起用され、勝利を博したが、王の歓心を取り戻せないまま、1582年にリスボンで死去した。ティツィアーノの筆になる肖像画が、リリーア宮殿とよばれるマドリードの現アルバ公爵邸内にある。

[深澤安博]

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改訂新版 世界大百科事典 「アルバ公」の意味・わかりやすい解説

アルバ公 (アルバこう)
Fernando Alvarez de Toledo,Duque de Alba
生没年:1507-82

スペインの軍人。新教勢力打倒のため各地に転戦,シュマルカルデン戦争ではミュールベルクで勝利し,ドイツ新教諸侯に大打撃を与えた(1547)。1567年大軍を率いてネーデルラントに赴任,同年末パルマ公妃マルハレータに代わって執政に就任した。数年来の反抗運動の関係者を懲罰するため〈騒乱評議会〉(いわゆる“血の法廷”)を設け,エグモント伯を含む多数の貴族・市民を処刑,また絶対主義政治体制の樹立をねらって〈十分の一税〉(商品取引税)など恒常的租税の導入をはかった。しかし武力を背景にした圧政は住民の憎悪を招き,72年以降ホラント,ゼーラント両州の反乱がオランイェ公の指導下に進展すると,これを打破すべく軍を進めたが,ハールレム攻囲の成功のほかは戦果に恵まれず,73年末解任されて帰国した。80年ポルトガルを征服し,そのスペインへの併合に貢献した。
八十年戦争
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルバ公」の意味・わかりやすい解説

アルバ公
アルバこう
Alba(Alva), Fernando Alvarez de Toledo, Duque de

[生]1507.10.29. ピエドライタ
[没]1582.12.11. リスボン
スペインの軍人,将軍。公爵。カスティリアの名家に生れ,17歳でパビアの会戦に参加,次第に戦功を認められて国王カルロス1世 (神聖ローマ皇帝カルル5世 ) に重用され,プロテスタント教徒の撲滅に転戦。国王フェリペ2世にも仕え,1567年からネーデルラント総督となり,残忍な宗教裁判 (→血の評議会 ) を行なってエフモント伯をはじめ多くのプロテスタント教徒を処刑,オランダ独立戦争を起させた。しかし軍事的制圧は成功せず,73年交代させられ,80年ポルトガル合併の征服戦争に起用された。

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百科事典マイペディア 「アルバ公」の意味・わかりやすい解説

アルバ公【アルバこう】

スペインの軍人。カルロス1世(カール5世),フェリペ2世に仕え,宗教改革時代におけるカトリック陣営の猛将としてほとんどの戦争に参加。ネーデルラント総督時代(1567年―1573年),苛酷(かこく)な宗教裁判と重税を実施し,八十年戦争を招いた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アルバ公」の解説

アルバ公(アルバこう)
Duque de Alba (本名 Fernando Álvarez de Toledo y Pimentel)

1507~82

スペインの貴族,軍人。カトリックの擁護者を任ずるスペイン国王に仕え,スペイン帝国内各地でプロテスタント勢力と戦った。特に1567~73年にはネーデルラント総督として圧政を敷き,これがオランダ独立戦争のきっかけとなった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「アルバ公」の解説

アルバ公
アルバこう
Duque de Alba
本名 Fernando Alvarez de Toledo

1508〜82
オランダ独立戦争の端を開いたスペインの軍人
カール5世(カルロス1世)に仕え,シュマルカルデン戦争で新教軍を撃破。1567年,フィリップ2世の命を受けてネーデルラント総督となり,エグモント伯ら新教貴族を処刑,重税を課して独立戦争をひき起こした。1580年ポルトガル併合にも活躍。

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世界大百科事典(旧版)内のアルバ公の言及

【オランダ共和国】より

…また,カルバン派の市民や農民は貴族の援護のもとに野外説教集会を開き,ついに教会や修道院を襲う聖像破壊運動(イコノクラスム)を引き起こした。翌年約1万の軍隊を率いてブリュッセルに到着したスペインの勇将アルバ公は,乞食団やカルバン派を徹底的に弾圧し,騒擾評議会(血の評議会)を設けて恐怖政治を行った。 68年ドイツに亡命していたオラニエ公はネーデルラントに進攻して失敗するが,ここに八十年戦争(‐1648)の幕が切って落とされる。…

【八十年戦争】より

…これに勢いを得たカルバン派は組織活動を一段と強め,また折からの経済危機を背景に同年夏,聖像破壊(イコノクラスム)の暴動が西フランドルから各地に波及すると,民衆運動に恐怖した多くの貴族は執政と協定して同盟を解散し,立ち直った政府はカルバン派の反乱をことごとく鎮圧して,オラニエ公ら多数が亡命を余儀なくされた。67年夏大軍を率いて着任した新執政アルバ公は騒擾評議会(血の評議会)を設けて年来の反逆に鉄槌を下し,69年〈十分の一税〉(商品取引税)の導入を図るなど強引な武断政治を行い,他方オラニエ公は68年(ここに八十年戦争の幕が切って落とされる),72年に亡命先から解放戦争を試みたがいずれも失敗した。しかし72年4月の〈海乞食Zeegeuzen〉(乞食団)によるブリーレ占領を口火にホラント,ゼーラント両州諸都市の大半がスペインの軛(くびき)を脱してオラニエ公を州総督として承認し,スペイン軍の猛攻によく耐え,ことに74年ライデン攻囲の解放に成功した。…

※「アルバ公」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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