改訂新版 世界大百科事典 「八十年戦争」の意味・わかりやすい解説
八十年戦争 (はちじゅうねんせんそう)
Tachtigjarige Oorlog[オランダ]
スペインの絶対主義支配に対する属領ネーデルラントの反乱に始まり,その北部(オランダ共和国)の事実上の独立を経て,スペインによるその承認に至った事件(1568-1648)の伝統的呼称。オランダ独立戦争ともいう。
スペイン国王フェリペ2世(在位1556-98)の中央集権政策に対して身分的,地域的諸特権を擁護する貴族や都市の反抗,また厳酷なカトリック政策に対する新教徒や寛容派の反抗はすでに1560年前後に始まった。まず司教区制の改革をめぐる紛議ではオラニエ公ウィレム1世,エグモント伯ら上級貴族が結束し,64年執政パルマ公妃マルガレータ(マルハレータ)Margarethaの側近筆頭グランベルA.P.de Granvelleを退去させたが,65年いっさいの政策変更を峻拒した王の〈セゴビア書簡〉を契機に反抗の主導権は下級貴族の手に移り,その〈貴族同盟〉は66年4月請願書を執政に提出して宗教迫害の停止を求めた。これに勢いを得たカルバン派は組織活動を一段と強め,また折からの経済危機を背景に同年夏,聖像破壊(イコノクラスム)の暴動が西フランドルから各地に波及すると,民衆運動に恐怖した多くの貴族は執政と協定して同盟を解散し,立ち直った政府はカルバン派の反乱をことごとく鎮圧して,オラニエ公ら多数が亡命を余儀なくされた。67年夏大軍を率いて着任した新執政アルバ公は騒擾評議会(血の評議会)を設けて年来の反逆に鉄槌を下し,69年〈十分の一税〉(商品取引税)の導入を図るなど強引な武断政治を行い,他方オラニエ公は68年(ここに八十年戦争の幕が切って落とされる),72年に亡命先から解放戦争を試みたがいずれも失敗した。しかし72年4月の〈海乞食Zeegeuzen〉(乞食団)によるブリーレ占領を口火にホラント,ゼーラント両州諸都市の大半がスペインの軛(くびき)を脱してオラニエ公を州総督として承認し,スペイン軍の猛攻によく耐え,ことに74年ライデン攻囲の解放に成功した。73年アルバ公に代わった執政レケセンスL.de Zúñiga y Requesénsの急死(1576)とそれに続くスペイン兵の反乱が事態を急転させた。76年11月ホラント,ゼーラント両州と他のスペイン軍支配下にある諸州との間に〈ヘントの和平Pacificatie van Gent〉が結ばれ,ここに対スペイン全国同盟が成ったかに見えた。しかし77年〈永久令〉を承認して全国議会により迎え入れられた新執政ドン・フアンDon Juan de Austriaが結局は議会と決裂した後,威信の高まったオラニエ公に対する南部カトリック貴族の反感,とりわけ78年1月ジャンブルーでの議会軍の惨敗後激化した新旧両教徒間の確執は〈ヘントの和平〉を掘り崩し,79年1月南北にアラス同盟,ユトレヒト同盟が分立した。ドン・フアンの後継者ファルネーゼはこの状況に巧みに乗じてアラス同盟を手なずけ(アラス講和),また兵を進めて85年までにほぼ南部全域を平定した。その間北部に押しやられた全国議会は,81年7月フェリペ2世の廃位を決議し,新君主としてフランス王弟アンジュー公を迎えたが,同公は83年権力強化のクーデタを企てて失敗,帰国し,オラニエ公も84年デルフトで凶弾に倒れた。中央の指導力が弱まったため全国議会はやむなく外国君主の庇護を頼んだ。しかし85年以降のイギリスの軍事援助もエリザベスの寵臣レスター伯の失態で実を結ばず,その結果として88年孤立無援の中で議会主権の〈ネーデルラント連邦共和国〉が事実上誕生した。オラニエ公の遺児マウリッツは軍を再編整備して90-97年に北部諸州からスペイン軍を駆逐し,やがてスペインの勇将スピノラA.de Spínolaの反撃にあって,1609年スペインとの間にひとまず〈十二年休戦条約〉が結ばれた。21年再開された戦争は三十年戦争の一環として遂行され,35年総督フレデリック・ヘンドリックはフランスと攻守同盟を結んだが,総督の死後48年,都市貴族層の主導でスペインとの間にミュンスターの講和(ウェストファリア条約)が成立した。
八十年戦争は,唯物史観では最初の近代市民国家を生んだ初期ブルジョア革命と規定され,また新生共和国の議会主権や思想の自由を重視して当事件の近代性を強調する史家も少なくないが,他方では中世的諸特権を墨守しようとした分立主義または伝統主義の強靱さのゆえに〈保守的革命〉とも呼ばれる。
→オランダ共和国
執筆者:川口 博
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報