日本大百科全書(ニッポニカ) 「コーシー」の意味・わかりやすい解説
コーシー
こーしー
Augustin-Louis Cauchy
(1789―1857)
フランスの数学者。大革命が勃発(ぼっぱつ)して間のない8月21日、政府の役人の子としてパリに生まれた。1804年にパリのリセ(中等教育機関)に入学し、同年のバカロレア(大学入学資格試験)に合格し、翌1805年16歳でエコール・ポリテクニク(理工科大学校)に入学した。1807年に土木工学校に入学し、1810年に卒業して土木技師となり、シェルブール要塞(ようさい)の構築に参加した。激しい労働のなかで余暇をみつけては数学を勉強し、正多面体は面数が4、6、8、12、20の5種類以外には存在しないことを完全に証明した論文と、凸多面体の面、稜(りょう)、頂点の数をそれぞれF、E、VとするときF+V-E=2が成り立つという「オイラーの定理」を拡張した論文をまとめ、この二つの論文を1811年にパリ科学アカデミーへ提出した。これを審査したルジャンドルに高く評価され、数学の道へ進むよう勧誘された。たまたま要塞構築の中止がうわさされたのを機に、パリへ帰ったコーシーは数学に専念し、次々と論文を発表、1816年にはエコール・ポリテクニクの教授に迎えられるとともに、わずか27歳でパリ科学アカデミー会員にも選ばれた。
1830年の七月革命でシャルル10世が追放され、ルイ・フィリップが王位についたが、新政府への忠誠を誓うことを拒んだコーシーは、イタリアのトリノ大学に新設された「数理物理学」講座の教授に迎えられ、フランスを離れた。1833年から5年間、シャルル10世の王子の教育のためにプラハに滞在した。1838年パリに帰ったが、公職につくことを許されなかった。1852年ナポレオン3世が王位につくと、学問は政治とは関係がないという立場がとられ、コーシーも新政府への忠誠を誓うことなく、公職に復帰することを許されたが、すでに老境にあったコーシーは、学界に復帰してまもなく1857年5月25日にパリ郊外で永眠した。
コーシーの業績の大部分は、解析学の領域に属し、解析学の基礎を強固にするものばかりであり、20世紀への大きな遺産となっているものも少なくない。その業績を大別すると、実変数の場合と複素変数の場合の二つである。しかし、いずれの場合にも不完全な点があり、後世の者がこの不備を修正するために、新しい概念を導入して、一段と飛躍した解析学を建設したのである。そのことを考慮に入れると、コーシーが自己の解析学を集録した『解析学講義』(1821)は、後世への遺産となるべきものを数多く伝えている。この名著には出ていないが、偏微分方程式の「初期値問題」の研究がある。コーシー自身が解決できなかったものを、フランスの数学者アダマールが類型的に整理して『コーシーの問題』という名で公刊し、この問題の解決に資している。
[小堀 憲]