アカデミーデシアンス(英語表記)Académie des Sciences

改訂新版 世界大百科事典 「アカデミーデシアンス」の意味・わかりやすい解説

アカデミー・デ・シアンス
Académie des Sciences

ルイ14世の宰相J.B.コルベールの肝いりで1666年に創設されたフランスの科学アカデミー。フランス革命に際して1793年いったん廃止されたが,95年,フランス学士院の一部として復活し,名称も当初のアカデミー・ロアイヤル・デ・シアンスAcadémie royale des Sciencesから現在の名に変わった。現在は自然諸科学11部門からなり,会員の定員は書記2人を含めて98人である。

 16~17世紀西欧における科学革命は,もっぱら大学の外で展開された。すなわち,科学革命の担い手たちの活動の場となったのは,貴族のサロンや私的なサークルであった。フランスにも,17世紀中葉,M.メルセンヌを中心とした科学者のサークルがあり,さらにH.L.アベール・ド・モンモールの後援のもとP.ガッサンディが主宰したモンモール学会などがあった。これら学会・サークルに結集した科学者たちは,科学研究に対して国家が財政的な援助を与えることを強く望んだ。一方コルベールは,科学者および科学研究の制度化を通じて,科学を国家の発展と栄光に役立てることができると考えた。このような経緯設立された科学アカデミーは国家機関であり,王立とは名ばかりで内実は科学愛好家のサークルにすぎなかったイギリスのローヤル・ソサエティ(王立協会,1660創立)とは存立基盤を異にしている。会員には俸給が支払われ研究費も与えられたが,反面,特許申請の処理や研究プロジェクトの遂行など,多くの義務が課された。とはいえ,科学アカデミーによる大規模な研究プロジェクト(たとえば,地球形状や大きさの正確な測定)の実施はフランス科学の威信を高めた。機関誌《コント・ランデュ》は1776年創刊。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「アカデミーデシアンス」の意味・わかりやすい解説

アカデミー・デ・シアンス

メルセンヌを中心として集まった学者たちの活動が,1666年コルベールによりアカデミー・ロアイヤル・デ・シアンスとして組織され,1699年ルイ14世により再編成されて数学・自然科学各分野にわたる総合的機関となった。1793年革命(フランス革命)により一時廃止,1795年国立学会Institut nationalの設立とともにその科学関係の最高機関として復活,1816年に現在の名に変わり,今はフランス学士院の一機関。幾何学,力学,天文学,地理航海学物理学,化学,鉱物学,植物学,解剖・動物学,地域経済学,医学の11部門からなる。機関誌《コント・ランデュ》(1776年創刊)。
→関連項目アーベルクレーローフーリエ

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のアカデミーデシアンスの言及

【学会】より

…イギリスにおけるローヤル・ソサエティの設立とその活発な活動は,ヨーロッパ各国の科学者たちを刺激した。その結果,フランスでは宰相コルベールの肝いりで66年,アカデミー・デ・シアンスが設立された。このアカデミーは国家機関であり,民間の私的団体であったローヤル・ソサエティとは組織原理を異にしていた。…

【メルセンヌ】より

…なかでも大著《普遍和声学》(1636‐37)その他による数学,音響学,音楽学の研究が知られているが,それ以上に重要なものは当時のヨーロッパ学界の情報収集・伝達網の中心としての活動であろう。35年に彼がつくったパリ・アカデミーはパスカル父子,ガッサンディ,ロベルバルGilles Personne de Roberval,ミドルジュClaude Mydorge,デザルグらを集めてフランスの科学研究をリードし,のちのアカデミー・デ・シアンスの創立(1666)を準備したし,またデカルト,フェルマー,グロティウス,ホッブズなど150名にも及ぶ各国学者との膨大な往復書簡は,今日の学術誌に匹敵する重要な役割を果たしたと言われる。【赤木 昭三】。…

※「アカデミーデシアンス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android