日本大百科全書(ニッポニカ) 「イェンス」の意味・わかりやすい解説
イェンス
いぇんす
Walter Jens
(1923―2013)
ドイツの作家、批評家、文学研究者。故郷ハンブルクおよびフライブルクの大学で古典文献学とドイツ文学を学ぶ。1949年以降、チュービンゲン大学で古典文献学や一般修辞学を講ずるかたわら、「グループ47」を代表する文学者の一人として創作を続ける。デビュー作『白いハンカチ』(1947)に続く小説『否――被告の世界』(1950)では、罪なき他者を告発するほか生きるすべのない全体主義国家の恐怖を描き、当時のドイツを代表する作家として認められた。その後、南仏の養老院を舞台とする印象主義的な小説『忘れられた顔』(1952)、古代ギリシアに素材をとった短編『オデュッセウスの遺言』(1957)などを書く。ドイツ文学史を再構築する試みとして『文学史に代えて』(1957)を発表、「現代文学は単なるポエジーではなく、同時に学問であり哲学である」として、作家と思索者を融合させた「ポエタ・ドクトゥス」(学者詩人)として自らの立場を自覚する。
第二次世界大戦後、ドイツが急速に保守化してゆくことに危機感を覚えたイェンスは、やがて小説という形式を離れ、随筆や講演といった、さらに直接的な語りの手段を模索し始める。1962年の評論集『ドイツの文体について』では、さまざまな作家(トーマス・マン、レッシング)や思想家(ローザ・ルクセンブルクら)が用いたレトリックを検証しているが、そこでイェンスは「言論の価値が貶(おとし)められている社会においてこそ、個人を啓蒙(けいもう)し、社会を変革するために、優れた修辞術が必要である」と説く。同様の問題意識は1970年代のエッセイと講演を集めた『共和主義的論考集』(1976)にも受け継がれているが、さらにここでイェンスは急進的な市民運動への共感を示し、文学もまた現実に対する無力さに絶望することなく、現にある不正をけっして肯定しないことがその使命であると述べている。
こうした意識の反映として、文学者イェンスの活動は多岐にわたっている。カエサルを主人公とした『陰謀』(1968)など、多くの放送劇を書く一方、長年にわたりテレビの番組批評を担当。学者としての専門である古典ギリシア文学の翻案・翻訳も多数あり、1980年代以降はキリスト教関連の論考や、福音書の翻訳などの仕事が増えている。1976~1982年にはドイツ・ペンクラブの会長を務めた。
[小山田豊]
『高本研一・中野孝次訳『現代文学 文学史に代えて』(1961・紀伊國屋書店)』▽『ワルター・イェンス著、小塩節訳『ユダの弁護人』(1980・ヨルダン社)』▽『ヴァルター・イェンス、ハンス・キュンク著、山本公子訳『文学にとって神とは何か』(1988・新曜社)』