47年グループ(読み)よんじゅうななねんグループ(その他表記)Gruppe 47

改訂新版 世界大百科事典 「47年グループ」の意味・わかりやすい解説

47年グループ (よんじゅうななねんグループ)
Gruppe 47

西ドイツの著作家の集りで,1950年代後半から60年代前半のドイツ語文学界に大きな意味を持った。第2次世界大戦終結の翌年ミュンヘンで創刊され,若い世代の主張を伝えた《ルーフDer Ruf(叫び)》誌(1946-47)がその前身になる。占領政策への批判的発言などのため同誌が発禁措置を受けたとき,編集者リヒターHans Werner Richter(1908-93)は新たな文学雑誌を企画し,志向を同じくする作家らを招いて,各自持参の原稿朗読討論を交わす集りを催した。雑誌は実現しなかったが,朗読と相互批判のための泊り込みの会合は毎年(初期は2回,56年から1回)続けられ,第1回集会の年1947にちなむ呼名がしだいに定着した。これは特定の文学的主張や綱領などを持たず,組織会則も会員名簿もない集団で,リヒターから招きを受けた者だけが参集するしきたりだったから,顔ぶれに変動があり,その文学的・思想的立場や社会へのかかわり方も人によりさまざまだった。ただナチズムと戦争に対する深い反省と,それにもとづく作家の社会的責務の自覚はメンバー全員に共通のもので,当時の冷戦構造下で保守単独政権の続く西ドイツでは,おのずと野党的・体制批判的姿勢が強かった。1950年からは一種の文学新人賞が作品朗読者の1人に与えられ,受賞者にはアイヒ,ベル,M.ワルザーグラスなど西ドイツの作家のほか,アイヒンガー(オーストリア),バハマン(同),ボブロフスキ(東ドイツ),ビクセルP.Bichsel(スイス)らがいる。ほかに集会になじみの作家にアンデルシュ,エンツェンスベルガー,ヒルデスハイマー,ヨーンゾン,P.ワイス等々,また常連の批評家にW.イェンス,W.ヘレラー,H.マイヤーらがいる。これら有力メンバーの社会的名声が高まるとともに,出版業者やジャーナリストの参会者も増えて集り自体が制度化し,内部矛盾も増大する。66年の集会(アメリカのプリンストン)では,古参メンバーに挑戦的批判を投げつけることで一躍名を高めたハントケのような例も出現,学生紛争の余波にもまれた67年の集りが実質的に最後の例会となった。
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百科事典マイペディア 「47年グループ」の意味・わかりやすい解説

47年グループ【よんじゅうななねんグループ】

旧西ドイツの文学者集団。H.W.リヒターやアンデルシュらによって戦後創刊された実存主義的,社会主義的な雑誌《ルーフDer Ruf(叫び)》が1947年に米国の占領軍によって禁止されたとき,その執筆者を中心に結成された。組織や特定の主張も持たない,流動的にメンバーの変わる集団で,エンツェンスベルガーグラスベルヨーンゾンらが参加した。
→関連項目バハマンハントケワルザー

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「47年グループ」の意味・わかりやすい解説

47年グループ
よんじゅうななねんグループ
Gruppe 47

第2次世界大戦後の西ドイツ文学を支えた大文学集団。文学者,ジャーナリストによって結成された。戦後,若い世代によって発行されていた政治・文化評論誌『叫び』 Der Rufが 1947年占領軍当局により発禁処分を受けたとき,同誌の同人が H.W.リヒターアンデルシュを中心に集って発足。当時掲げた目標は,文学,ジャーナリズムの領域におけるエリートの養成,個々人による民主主義の実践という2つの目的を綱領,組織,画一的思想などをもたずに推し進めることであった。その中心はゼーリング,コルベンホフ,クレーマー=バドーニ,イェンスらで,H.ベル,G.グラス,ヨーンゾンらも属する。 77年解散した。

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