イーペルの戦い(読み)いーぺるのたたかい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イーペルの戦い」の意味・わかりやすい解説

イーペルの戦い
いーぺるのたたかい

第一次世界大戦時の西部戦線ベルギーイーペルにおけるドイツと連合軍との3次にわたる戦い。第一次世界大戦が始まると、ドイツはベルギーの中立を侵犯し、1914年10月にアントウェルペンアントワープ)を占領した。ベルギー軍は英仏両軍とともにイーペル‐イゼール・ラインまで退却し、イーペルは一時ドイツ軍に占拠されたものの、イギリス軍によって押し返された(第一次イーペル戦、1914年10月30日~11月22日)。その後イーペルは北東部に対する防衛の要(かなめ)とされた。相対峙(たいじ)する両陣営は、北海に向けて敵の側面に回りこんで進攻しようとする延翼競争を展開したため、互いに敵を包囲できないまま、やがて北海からスイスに至る1000キロメートルにおよぶ両軍の大塹壕(ざんごう)陣地が築かれ、その戦線が北東部に突出し、「イーペルの突出部」が形成された。こうして西部戦線は陣地戦による悲惨な大殺戮(さつりく)戦の様相を呈していった。

 続く第二次イーペル戦(1915年4月22日~5月25日)では、イギリス軍はドイツ軍の掌中にあった第六〇高地を攻略したが、ドイツ軍は致死性の塩素ガスを大量に放出したために、英仏軍はパニックを起こして塹壕から退避した。ドイツ軍は幅6キロメートルにわたる連合軍陣地を占領したが、この突破口も英仏両軍の反撃でふたたび塞(ふさ)がれた。なお、この毒ガス使用が口火となって、以後世界各国で化学兵器の開発が進められることになった。第一次世界大戦では約30種類の毒ガス兵器が使用されたという。

 1917年、4月から5月にかけてのフランス陸軍内での大反乱で、一時期西部戦線のフランス軍は戦闘不能に陥った。司令官ダグラス・ヘイグDouglas Haig(1861―1928)指揮下のイギリス軍は、ドイツ軍がフランス軍に攻撃をしかけることを未然に防ぐため、イーペル近郊で第三次イーペル戦(1917年7月31日~11月10日)を展開した。ドイツ軍は強力なマスタードガスカラシの匂(にお)いがする毒ガス。イーペルの地名にちなんでイペリットとよばれるようになった)を使用し反撃した。3か月以上続いた泥土のなかの凄惨(せいさん)な戦いであったが、イギリス軍はイーペルの突出部を約8キロメートル前進させ、オーストラリア、カナダ両軍とともに近郊の村パーサンダーラまで敵を追撃した(パーサンダーラの戦い)。

 最後の戦闘は「第三次フランドル戦」あるいは「ケムメルの戦い」とよばれている。1918年4月、ドイツ軍のケムメル占領に始まる戦いは熾烈(しれつ)をきわめたが、1918年10月、連合軍の総攻撃によってドイツ軍は突出部からの撤退を余儀なくされ、11月11日、第一次世界大戦は終結した。

 4か年に及ぶこの地での戦いで戦死者は約30万人以上、戦傷者は約120万人に達したといわれている。「イーペルの戦い」は両陣営に決定的な勝利を与えることはなく、イーペルは度重なる戦闘で「死の町」と化し、廃墟(はいきょ)からの復興に50年もの歳月を要した。現在イーペル市は『フランドル戦争資料館』を設置し、戦争の悲惨や経緯を物語るだけでなく、兵士、従軍看護婦、戦争罹災(りさい)者や子供の犠牲者の鎮魂と平和に向けての学習の場としている。

[藤川 徹]

『J・M・ウィンター著、小林章夫監訳『第1次世界大戦――20世紀の歴史』(1990・平凡社)』『三野正洋・田岡俊次・深川孝行著『20世紀の戦争』(1995・朝日ソノラマ)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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