江戸に本拠をおいた〈穢多頭(えたがしら)(長吏頭(ちようりがしら))〉で,関八州と伊豆の全域,および甲斐,駿河,陸奥の一部の被差別部落を統轄するとともに,触頭(ふれがしら)として全国の被差別部落に号令する権限を幕府からゆだねられていた。歴代この名を襲名し,幕末・維新期の第13代弾左衛門(弾内記(ないき),直樹(なおき))にいたって旧来の地位・権益を失った。
弾左衛門家の,江戸時代以前における沿革については,ほとんどわかっていない。《弾左衛門由緒書(ゆいしよがき)》は,遠く治承4年(1180)9月に〈鎌倉長吏藤原弾左衛門〉という者が源頼朝から朱印状を受け,長吏や非人をはじめとする28種の諸職の上に弾左衛門が立って彼らを統轄する権限を認められたのが始まりであると伝えており,また足利家から〈関八州長吏頭〉に任命されたとも称するが,いずれも確証がなく,その取扱いには慎重を要する。
弾左衛門の住所は,当初は江戸城に近い日本橋かいわいに定められたが,やがて浅草に移されて,新町(しんまち)を〈囲い内(かこいうち)〉とし,大規模な屋敷構えを許されて〈弾左衛門役所〉と呼ばれた。将軍家の威光を背にしながら,江戸はもとよりのこと関東諸地域の被差別部落の掌握に努め,1722年(享保7)には江戸で非人統轄の任に当たっていた〈非人頭〉を配下に組み入れるのに成功。これにより,弾左衛門の支配圏は大幅に拡張されたとみられる。以降,主として行刑・皮剝(かわはぎ)(皮革生産)を生業とする人々を中核とした被差別部落の上に屹立(きつりつ)して,その強大な実権と確固たる管理統制機構とにより幕府の人民支配を根底から支える任務を負い続けた末に,幕末の激動期を迎えた。
幕末・維新期に,一族・配下の命運を双肩にになった第13代弾左衛門は,遠縁で摂津住吉郡の長吏であった利左衛門(りざえもん)の長男として生まれ,小太郎といったが,若くして病臥の身となっていた第12代(名は譲・周司)の養嗣子に迎えとられて同家を継いだ。その後は歴代と同様に幕府に忠節を尽くし,第2次長州征伐(1866)に際しては,幕命を奉じて500余名の配下を軍夫として大坂に急派したのみならず,みずからも独断で摂津の被差別部落におもむいて〈鉄砲組百人〉の編成と幕府軍への提供を勧めたりもしたほどであった。
しかしながら,過酷な身分的差別に対する被差別部落住民の不満は,すでに集中的に高まってきており,幕府・諸藩の意に反する行動に出る人々も目だっていたし,そのうえ,〈えた・非人〉の人数や実力に着眼して特別の軍隊を編成する藩(長州藩)や,江戸市中の攪乱工作に利用しようとして弾左衛門に誘いをかける藩(薩摩藩)など,倒幕をめざす諸藩の動きもみられたから,幕府としても弾左衛門の志向に神経を立てざるをえなくなった。弾左衛門はみずからの身分呼称の〈えた〉を〈醜名〉とみて深く恥じており,その除去,すなわち身分の格上げを願ってやまなかったから,将軍家侍医松本良順をつうじて〈醜名除去〉を請願するにいたった。この件は政情多端のなかで一時紛れはしたが,大政奉還・王政復古(1867)のあとに起こった鳥羽・伏見の戦(1868年1月)の直後,第15代将軍徳川慶喜の命により,長州征伐での功績を理由にしてようやく実現し,〈えた〉身分から〈平人(へいじん)(平民)〉身分に転じ,あわせて弾内記(のち直樹)と改名することも許されて〈海陸軍付病院御用〉を申し付けられ,医学所頭取の松本良順の配下に入れられた。内記はすぐに〈譜代手下(ふだいてか)〉65名についても格上げを請願し,認可された。また彼はこの件に関連して幕府に建白書を上呈,そのなかで,積年の差別を〈数百年の流弊(因習による弊害)である〉と断じ,〈天地の間に生をうけた人種(人間)にかわりないにもかかわらず,人倫の交わりも成り立たぬとは,まことに歎かわしい極(きわ)みである〉と述べて,配下にあったすべての〈賤〉,および直接管轄外にあった西日本各地の天領(幕府直轄領)・譜代大名領内の〈賤〉の身分格上げを強く要望した。だが,これの実現は,維新政府による1871年(明治4)の〈解放令〉をまたねばならなかったのである。明治に入ってからは名を直樹とし,文明開化の風潮のなかで皮革・洋靴製造工場の設立・経営に一族とともに取り組んで苦闘したが,資本家の積極的な進出に圧倒され,大日本帝国憲法公布の89年に没した。
執筆者:横井 清
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江戸時代、関(かん)八州の大半および甲斐(かい)・伊豆・駿河(するが)・陸奥(むつ)の一部、あわせて12か国にまたがる地域の穢多(えた)・非人(ひにん)・猿飼(さるかい)を支配した穢多頭(えたがしら)代々の称。武士支配の社会的秩序を維持し強化する役割を果たす江戸時代の封建的身分には士(支配身分)、農工商(平民身分)などがあった。穢多は、非人とともに、平民身分の下におかれた賤民(せんみん)身分で、厳しい差別を受けた。弾左衛門は、1722年(享保7)、非人頭車善七(くるまぜんしち)が穢多頭の配下ではないと主張しておこった争論に勝訴、江戸の非人頭に対する支配権をいちおう確立し、非人を刑罰に処する仕置(しおき)権も掌握することとなった。これらの事実は、関八州などにおける弾左衛門を頂点とする賤民支配体系が整備されたことを示す。弾左衛門は、役として、太鼓(たいこ)、皮細工、灯心などを幕府に上納したほか、将軍が旅行する際の警護、罪人護送や処刑の人足などを出すよう命じられ、これを配下の穢多・非人に割り当てた。彼は、零細な農耕のほか、皮鞣(かわなめ)しや灯心製造などに従事する配下の穢多や、非人頭を通じて非人から徴税し、その経済的実力は3000石の旗本級といわれ、江戸北郊に大邸宅を構えていた。1800年(寛政12)の書上(かきあげ)では、穢多5664軒、非人1995軒、猿飼61軒が彼の直接間接の支配下にあった。
[成澤榮壽]
『部落問題研究所編・刊『部落の歴史 東日本篇』(1983)』
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…なぜならば,北畠の声聞師というのは北畠散所(さんじよ)を根拠地として活動した当代の賤民的雑芸者の集団であるが,それとの歴史的連関はさておくとして,江戸時代の身分制で賤民身分の中核にすえられた〈えた〉が,〈えた〉としての権益を主張するための根本的な〈証文〉として受け伝え,保持していた文書(名称は種々あるが,こんにちでは《河原巻物(かわらまきもの)》と総称されている)に,源頼朝から引き立てられて御用をつとめたのが始まりであると由来を説きおこすのが通例だからである。たとえば,江戸浅草の〈穢多頭(えたがしら)〉弾左衛門(だんざえもん)家伝来の《頼朝卿御朱印の写(うつし)》では,1180年9月に〈鎌倉長吏(ちようり)弾左衛門藤原頼兼(ふじわらのよりかね)〉が頼朝の朱印状により,長吏,座頭(ざとう),舞々(まいまい),猿楽(さるがく),陰陽師(おんみようじ)など各種の職業の支配権を得たという。 この種の文書が偽文書であることは,すでに明らかにされているが,なぜ〈源頼朝〉が〈えた〉の由緒意識の中心にあったのかは,解明されつくしたとはいいがたい。…
※「弾左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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