日本大百科全書(ニッポニカ) 「醸造業」の意味・わかりやすい解説
醸造業
じょうぞうぎょう
酵母菌の働きを利用して、酒類を製造する酒造業と、しょうゆ、みそ、食酢などの調味料製造業をあわせて醸造業とよぶ。酒造業(洋酒を除く)はもとより、日本人の食生活に不可欠なしょうゆ、みそ、食酢の製造業は、典型的な伝統地場産業である。いずれも、地方特有の風土に強い影響を受けるものだけに、地場の小企業によって伝統的手法で生産されてきた。この分野で、大手ブランドによる大量生産・大量販売が出現するのは、一般に第二次世界大戦後のことである。これに対し、洋酒類と焼酎(しょうちゅう)(甲類)は当初から少数の大企業によって近代的大工場生産が行われ、寡占化が進んでいる。
日本国内の酒類消費量は、ビール類を中心に戦後増加傾向をたどっていたが、1999年度(平成11)の955万キロリットルをピークに減少傾向をたどりつつあり、2013年度(平成25)の時点で859万キロリットルである(『国税庁統計年報書』による)。こうした国民の酒類離れが進む一方で醸造業は、バイオテクノロジーの発展により、先端産業に脱皮する可能性を示し始めている。伝統的な醸造技術が、第二次世界大戦後、近代的な工場生産技術と結びついて発展をみせた日本では、その技術をバイオテクノロジーの領域に応用していく条件が整備されているからである。その意味で、醸造業は古くて新しい産業なのである。
[殿村晋一・永江雅和]
清酒
酒の醸造が、販売を目的に専門業者によって行われるようになるのは鎌倉時代からである。室町時代には京都、坂本、奈良、堺(さかい)、鎌倉、博多(はかた)、西宮(にしのみや)などに多数の酒屋がおこった。江戸時代、清酒の製造が本格化し、伊丹(いたみ)、池田、灘(なだ)が銘醸地として全国的に知られ、最大の消費地江戸では上方(かみがた)からの下り酒として江戸近在の地廻(じまわり)酒を圧倒した。各地農村でも上層農民による造り酒屋が生まれ、地酒の生産が行われた。1874年(明治7)の統計によれば、酒の生産額は1860万5000円で、綿織物(1085万6000円)を凌駕(りょうが)している。酒造業の発展は、冬季出稼ぎ農民による杜氏(とうじ)制度という特殊な労働体系の発展によって支えられた。その後、清酒の生産量(原酒)は、明治、大正期にそれぞれ84万キロリットル(1896)、106万キロリットル(1919)とピークに達したのち、昭和初頭から減少傾向をみせ、生産が制限された第二次世界大戦時統制期には激減した。戦後は1965年(昭和40)に戦前水準に回復し、1975年には168万キロリットルとピークに達した。1970年代から1980年代にかけて地酒ブーム、吟醸酒ブームが生じることで、品質向上と地域ブランドの認知が進み、一時消費量が拡大したが、1990年代に入り、国民の酒離れ、焼酎ブームなどの影響を受けて消費量は減少傾向をたどっており、2013年度(平成25)には58万キロリットルとなった。メーカー数は1970年度末時点で3533社であったが、大手メーカーによる統廃合や清酒人気後退の影響などを受け、2013年度末には1652社に減少している。
[殿村晋一・永江雅和]
焼酎
焼酎甲類(新式焼酎)の生産は、大正初期にサツマイモや廃糖を原料として、近代的アルコール工場で行われた。現在では、宝(たから)酒造、合同酒精など寡占的大企業によって製品化されており、2006年(平成18)時点で、上位5社の生産集中度は90%を超える状況となった。生産量は1970年(昭和45)時点の15万キロリットルから、1980年代のチューハイブーム、2000年代前半の焼酎ブームにより急増し、2004年度には45万キロリットルに達した。しかしブームの沈静化により、2013年度には40万キロリットルに減少している。焼酎乙類(本格焼酎)の生産は、南九州、沖縄など高温多湿のため清酒醸造に不適の地域の伝統産業として行なわれてきたが、これも1980年代と2000年代前半の「焼酎ブーム」にのり、生産量を伸ばし、1970年の5万キロリットルから2004年度の59万キロリットルと急成長をみせた。その後は漸減傾向にあり、2013年度の生産量は51万キロリットルとなった。
[殿村晋一・永江雅和]
洋酒
国内醸造業で最大の規模をもつビール醸造は、1872年(明治5)に始まり、日清戦争に前後して群小のビール会社によって生産量を急伸させたが、日露戦争後の1906年(明治39)にはわずか4社に統合され、大日本麦酒(ビール)会社(シェア70%強)、麒麟(キリン)麦酒会社の2社が生産を事実上独占した。戦後、「過度経済力集中排除法」によって大日本麦酒がサッポロビールとアサヒビールに分割された間隙(かんげき)を縫ってキリンビールが急伸し、その後長らく業界1位を守っていたが、1980年代後半からアサヒビールが急速にシェアを拡大し、キリンビールと激しいシェア争いを展開している。1990年代には地ビールブームが起こり多数の地ビールメーカーが登場したが、今日に至るまで、前記2社に加え、サッポロビール、サントリーを加えた上位4社のシェアが90%を超える寡占状態に変化は生じていない。これら大メーカーは酒税法回避のために原料を調整した「発泡酒」「第3のビール」の製品化による低価格品競争に加え、健康ブームに対応して低糖質発泡酒、ノンアルコールビール等、ビールの定義を塗り替えかねない規模での商品開発に邁進(まいしん)している。ウイスキーは1929年(昭和4)に寿屋(ことぶきや)(現、サントリーホールディングス)が、1940年にニッカが販売を開始した。この2社が第二次世界大戦後、生活の洋風化を反映した1950年代の「ウイスキー・ブーム」のなかで急成長したが、1980年代の円高のなかでブランド価値の低下が進行し、生産量が1980年(昭和55)の35万キロリットルから2007年度(平成19)には5万キロリットル台まで低迷した。2009年度以降は回復に転じ、2013年度は9万キロリットルとなった。果実酒としてのワインは1980年代に生産量を増加させ、1998年度(平成10)には10万キロリットルのピークに達したが、その後やや安定し、2013年度時点で9万キロリットルと、比較的安定した生産量を維持している。
[殿村晋一・永江雅和]
しょうゆ
しょうゆの商品生産は、室町時代、和歌山の湯浅に始まり、その後17~18世紀に大消費地江戸を対象に、紀州から銚子(ちょうし)(ヒゲタ、ヤマサの祖)と野田(キッコーマンの祖)に進出し、幕末から明治以降にかけて「三印(さんじるし)」とよばれる優良ブランドに成長した。明治末から醸造工程の改良が進められたが、それでも1年以上の醸造期間を要するため、資本設備は比較的大きい。2012年(平成24)時点で、しょうゆ醸造事業所1364か所のうち、31%のシェアをもつキッコーマングループ(キッコーマン、ヒゲタ)に加えて、ヤマサ、正田、ヒガシマル、マルキンの大手5社のシェアは56%に及んでいる。出荷量は79万キロリットル(2013)で、1人当りの年間購入量は1.9リットル前後である。
[殿村晋一・永江雅和]
みそ
みそは、戦国時代から、寒地では概して辛みそ(おもに赤みそ)、暖地では甘みそ(おもに白みそ)が、塩の保存(たとえば東北の三年みそ)と兵食の確保(たとえば阿波(あわ)の御膳(ごぜん)みそ=焼みそ、武田・甲州流の影響を受けた信州みそなど)と関連して発達した。特有の風味をもつものだけに、農村では一般に自家製造され、都市の需要も、明治末まで、家内工業的規模の生産で充足されてきた。本格的な大量生産が行われるのは第二次世界大戦後のことで、とくにマルコメ、ハナマルキ、ひかり味噌など信州みその台頭が著しく、この上位3社で2009年国内シェア約40%を占めている。2012年(平成24)時点で、事業所数は832か所(従業員4人以上)、生産量は44万トンである。
[殿村晋一・永江雅和]
食酢
江戸中期より醸造酢(とくに米酢)の生産が急伸したのは、米飯の乳酸発酵の防腐力を利用して魚肉を保存する「なれずし」にかわって、米飯に酢をうち、魚の生肉をのせる「早ずし」が普及したことによる。現在のメーカーの多くは江戸時代創業のものが多い。第二次世界大戦後、1960年代まで酢酸に調味料を添加した合成酢が3割近い出回りをみせたが、健康食品ブームのなかで後退し、今日では99%以上が本来の醸造酢に戻っている。また健康ブームは従来の調味用だけではなく、黒酢、果実酢、もろみ酢などの飲用需要を開拓した。その他、ドレッシング、マヨネーズの加工用需要も増加し、事業所数255か所(従業員4人以上)、生産量39万キロリットル(2012年度)のうちトップ・メーカーのミツカンのシェアは40%を超え、典型的な寡占業界を形成している。
[殿村晋一・永江雅和]