ルーマニアの中央北部の地方名。英語ではTransylvaniaとつづる。トランシルバニアは〈森の彼方の国〉という意味で,12世紀のラテン語文献にTerra Ultrasilvanaの形で初めて現れる。これはマジャール人(ハンガリー人)がハンガリー南部の平原から西カルパチ山脈以遠の地をさして呼んだことばであった。ハンガリー語ではエルデーイErdélyと呼ばれるが,これも同じ意味をもち,ルーマニア人もそれに由来するアルデアルArdealという名称をトランシルバニアと併用している。ドイツ人はジーベンビュルゲンSiebenbürgen(七つのブルクBurgの意)と呼んでいる。七つのブルクが何を意味したかについては諸説があるが,この名称が用いられるようになったのは13世紀以降で,当初はドイツ人植民者の支配領域だけをさした用例もみられ,のちにトランシルバニア全体と同義に用いられるようになったのである。政治領域としてのトランシルバニアは時代によって若干変化するが,一般には東,南,西の三方をカルパチ山脈に囲まれた地域をさし,現在もそのように用いられている。
自然地誌的にみれば,それぞれ東,南,西カルパチ山脈と呼ばれるこれらの3山脈に囲まれた台形の地域は,南ロシアからドナウ平野を経てハンガリー大平原に連なるステップ状の地帯に対して,孤城の観を呈している。東および南カルパチ山脈には2000mをこす山が多く(最高は南カルパチ山脈のモルドベヤヌMoldoveanu山の2544m),これに比し西カルパチ山脈の山々は一般に低いが(最高はビホルBihor山の1849m),これらの山脈に抱かれたトランシルバニアはそれ自体一つの大きな盆地といってよい。しかもその内部には高原,丘陵,渓谷地帯や中心部のトランシルバニア平野があって変化に富んだ景観がひろがり,平野部はもちろん1300mぐらいの高地にまで集落が散在している。肥沃な耕地と牧草地,さらに豊かな鉱物資源(貴金属,岩塩等)はこの地域の経済の発展を促してきた。しかもこの孤城は山脈を横切る多くの渓谷によって東ヨーロッパの諸地方と結ばれ,古くから東西貿易の重要路の一つとみなされてきた。
トランシルバニア社会の特色を生みだした主要な要因として,その民族構成があげられる。歴史的にみて主要な民族は,ルーマニア人,マジャール人,ドイツ人であるが,過去にさかのぼってこれら住民の絶対数を算出することはほとんど不可能に近い。近代に入ると1784-87年にオーストリアのヨーゼフ2世が行った最初の人口調査以来,いくたびか国勢調査が行われているが,そのときどきの支配民族の政治利害によって恣意的な調査が行われたため,それの利用には細心の注意が払われなければならない。たとえば,1910年の調査では,総人口525万7000人のうち,ルーマニア人53.8%,マジャール人28.6%,ドイツ人10.8%で,1956年の調査では,総人口623万2000人のうち,ルーマニア人65%,マジャール人25%,ドイツ人6%となっている。この数字から明らかなように,ルーマニアのトランシルバニア併合以後ルーマニア人の人口比の増大が目だっている。
このように諸民族が共存しながら領土問題がからむために,従来トランシルバニアの歴史は民族的軋轢(あつれき)の舞台として描かれ,あるいはそれぞれの民族の立場から記述される傾向が強く,それが客観的なトランシルバニア地域史の研究を妨げてきた。事実トランシルバニアは,ドイツ人にとってはその植民者が西欧キリスト教文明を伝播し外敵からこれを防衛する橋頭堡であったし,ハンガリー人にとってはとくにオスマン帝国支配の時期に民族文化の伝統をはぐくみつづけた温床であり,またルーマニア人にとってはダキア・ローマ時代以来の民族の揺籃の地であり,かつその民族運動の発祥地でもあった。しかし恵まれた自然の下での諸民族の共生が独自の地域文化を生みだし,またとくに進歩的知識人や民衆レベルでの友好的な紐帯(ちゆうたい)が結ばれた諸事実を見落としてはならない。
歴史が確認しうるトランシルバニア最古の国家は,インド・ヨーロッパ語系のダキア人の国であり,その主邑は今もなお廃墟の残るサルミゼジェトゥサSarmizegetusaであった。トランシルバニアの鉱物資源に目をつけたローマ人はトラヤヌス帝のときにこの地を征服し(106),以後アウレリアヌス帝がローマ軍の撤退を命じた271年まで,ここをダキア州とした。その後のいわゆる民族移動期には,ゴート,フン,ゲピード,アバール,スラブの諸族がこの地に移住し,9世紀にはブルガリア王国が支配していた。ダキア人とローマ軍撤退後もこの地に残ったローマ人との子孫である原ルーマニア人は,ほぼこのころまでに民族として形成されていった。彼らはやがてブラフVlahと呼ばれるようになり,10世紀ごろにはとくにカルパチ山脈の高原地帯(ハツェグ,ファガラシュ,マラムレシュ等)にブラフの法と称される慣習法にもとづく共同体を営んでいた。また平野・丘陵部でスラブ人と共住し,彼らから農業技術を学んだであろうことは,スラブ語起源の農業用語がルーマニア語の中に多く取り入れられていることからも推測できる。
フィン・ウゴル語系のマジャール人は,9世紀末に東方からハンガリー盆地に移住し,パンノニア平原に建国した。彼らのトランシルバニアへの移住と支配の過程については諸説に分かれているが,遅くも12世紀にはハンガリー盆地周辺の一円が,ハンガリー王国の支配下におかれた。彼らは城市を築き県制度を導入し,多くの共同体の土地が奪われて王領または聖俗貴族の領地となった。12世紀にトランシルバニア侯(初めは一部を支配)がおかれ,また身分制議会が設けられた。マジャール人移住者の多くは商人と農民であったが,ルーマニア語の町oraş,商品marfǎ等のことばがハンガリー語起源であることからもわかるように,彼らは都市経済を発達させた。しかし社会の封建化に対しては原住民の抵抗もみられ,たとえばブラフ,スラブ人のクネズcnez(軍事,司法,徴税をつかさどる地方の頭目)の制度のように,なおしばらく存続したものもあった。また外敵の防衛と経済発展のために,ハンガリー国王は外国人植民者やセーケイ人を利用しなければならなかった。セーケイ人は現在ではマジャール人にまったく同化されているが,その起源はトルコ系のブルガール族に属し,独自の共同体組織と慣習を維持して,王国の防人的役割を果たし,12世紀中ごろまではビホル地方にいたが遅くも13世紀には現在の居住地であるトランシルバニア東部へ移住した。
ドイツ人の移住は12世紀に始まる。ハンガリー国王は1215年に,ドイツ騎士修道会にトランシルバニア南東部のブルツェンラントBurzenlandを与え,ドナウ平原を支配していたトルコ系のクマン人に対抗せしめたが,これは25年に廃止された。しかし1222年の金印憲章によってドイツ人植民者に特権が与えられたため,以後植民者の数は増大した。彼らは最初トランシルバニア南部に移住し,そこから他地方へ広がった。彼らはその後総称してザクセン人と呼ばれるようになるが,出身地はさまざまであり,ただザクセン出身者の組織がもっとも整っていたためにそう呼ばれるようになったのであろう。彼らは商人と農民であったが,とくにドイツ風の諸都市を建設し,これらの都市は,シビウとブラショブに代表されるように,15~16世紀前半には東西貿易で繁栄した。ザクセン人は県制度から独立してハンガリー国王に直属する行政単位シュトゥールStuhlを形成し,全ザクセン人地域の自治機関としてはザクセン議会Universitas Saxonum(行政,立法,司法権をもつ)を設けた。シュトゥール制度はセーケイ人にも採用され,彼らの自治区域が形成された(中心地はトゥルグ・ムレシュ)。またザクセン人は商業以外にも,重い犂(すき)を使用する集約的農業経営を発展させ,のちにマジャール人やルーマニア人農民にもその技術が伝えられた。この時期の諸民族の関係を規定したものに,1438年の三民族同盟Unio trium nationumがある。これは,フス戦争の影響をうけた1437年のマジャール人,ルーマニア人の農民反乱のあとで,支配階級の間で結ばれた同盟であったが,ここでマジャール人,ドイツ人,セーケイ人のみが公認の民族として認められ,ルーマニア人は否認された。またカトリックが公認宗教となり,ルーマニア人の東方正教は許容される宗教とされた。ここでいうナティオnatioは,民族的区分のほかに身分的区分をも意味するものであったが,この原則は,19世紀までつづいた。
1526年のオスマン帝国に対するモハーチの戦での敗戦により,ハンガリー王国は三分され,トランシルバニアはオスマン帝国スルタンの宗主権を認める独立の公国となった。旧ハンガリー王国の他の地域よりも恵まれた条件にあったトランシルバニアには,独自の発展を遂げる可能性があった。おりしも宗教改革の運動はこの地にも波及し,ザクセン人はルター派,マジャール人はカルバン派に改宗した。宗教改革は民族意識を目覚めさせ,クルジュ市のカルバン派への改宗のときのように,それはマジャール人とザクセン人の対立の様相を呈したが,諸民族の共存関係の上に立ってきたトランシルバニア社会の特質により,1557年にはカトリック,ルター派,カルバン派が公認宗教と認められ,宗教戦争の時代のヨーロッパにおいて初めて宗教的寛容が実現され,71年には,反三位一体派も公認宗教となった。東方正教の地位は変わらなかったが,〈トランシルバニアのルター〉と呼ばれたヨハネス・ホンテールスJohannes Honterus(1498-1549)による印刷術の導入は,ルーマニア人コレシCoresi(1510ころ-81ころ)によるスラブ語の教会聖典の印刷を可能にした(1557)。16世紀末にトランシルバニア公バートリ・イシュトバーンはポーランド国王となり,また三十年戦争でトランシルバニア公国は国際政治上重要な役割を演じ,ウェストファリア条約にも独立国として名を連ねたが,これらはトランシルバニア公の権力の増大を意味した。
17世紀末におけるオーストリアのオスマン帝国への軍事的勝利は,再びトランシルバニアの自立を脅かした。このころトランシルバニアの官房長ベトレン・ミクローシュBethlen Miklós(1642-1717)はオーストリアから信教の自由と自治の保障を得たうえでトランシルバニアの自立性をまもろうとするいわゆるトランシルバニア主義の思想を唱えた。しかしオーストリアに対する1703-11年のラーコーツィ・フェレンツの解放戦争は,マジャール人,ルーマニア人,スロバキア人,ウクライナの農民が参加して戦われたが,これが挫折した後は,トランシルバニアが独立性を確保する可能性は失われた。13年オーストリアはトランシルバニア総督を置き,ハンガリーとは政治的に分離した。オーストリア政府は,ルーマニア人の懐柔同化政策をとり,彼らにローマ教皇の権威を認めさせるカトリックとの合同教会をつくった。皮肉にも合同教会の聖職者の中からルーマニア人の民族運動の指導的知識人(いわゆるトランシルバニア学派)が現れ,1791年にはルーマニア民族の同権を求める皇帝への請願書Supplex Libellus Valachorumが提出された。これは却下されたが,身分制原理に対して住民数に応じた民族的権利の要求という新しい観点を定着させ,その後の民族運動の出発点となった。
1848-49年のハンガリー革命は,トランシルバニアをハンガリーに統合したが,ハンガリー人地主に反対するルーマニア人農民と自治権の剝奪に反対するザクセン人はハンガリー革命軍と戦い,他方革命末期にハンガリーとワラキアの革命家の間に同盟協定も成立するが,最終的には,オーストリア軍とロシア軍の干渉によって双方の革命運動は鎮圧された。67年以後のオーストリア・ハンガリー二重帝国の時期に,トランシルバニアはハンガリー王国に編入されたが,68年の民族法と教育法に始まる民族差別政策はそれぞれの民族運動を激化させていった。76年にはザクセン人とセーケイ人の自治組織も廃止された。これに対し第1次世界大戦によるオーストリア帝国の崩壊過程で,1918年12月にアルバ・ユリアで開かれたルーマニア民族集会においてトランシルバニアのルーマニアとの統合が決議された。国際法上は20年のトリアノン条約によって正式にこれが決定された。40年ウィーン裁定によってトランシルバニアの北半分はハンガリー領となったが,第2次世界大戦後のパリ条約(1947)によりルーマニアの領有権が認められた。その後,社会主義体制への変革に伴い民族問題にも質的変化が生じたが,70年代からトランシルバニアのマジャール人問題をめぐって,再び論壇でルーマニア・ハンガリー間に論争が行われるようになり,民族問題が完全な解決には至っていないことを暗に示している。
執筆者:萩原 直
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ルーマニアの中央部から北西部を占める地域。歴史的には東カルパティア、南カルパティア、西カルパティア(アプセニ山脈)の各山脈に囲まれた中央の台地部をさす。広義には、西カルパティア山脈の外縁に広がるバナート地方、クリシャナ地方、マラムレシュ地方を含む。「トランシルバニア」は英語名で、ルーマニア語名アルデアルArdeal、ハンガリー語名エルデーイErdély、ドイツ語名ジーベンビュルゲンSiebenbürgen。面積10万2000平方キロメートル、総人口約759万(1997。面積、人口とも広義の範囲)。ルーマニア人のほかに、100万以上のハンガリー人が居住している。気候は大陸性であるが、年間を通じて大西洋や地中海の影響を受ける。地形的には、北部のソメシュ高原とトランシルバニア平原、中央部のトゥルナベ丘陵、西部のセカシェ高原、南部のフルティバチウ高原に分かれる。これらの縁辺部にビストリツァ、ブラショフ、シビウ、ファガラシュなどの盆地群が連なる。西カルパティア山脈の西側に広がる平原はハンガリーのプスタ平原に続く。北部ではソメシュ川の、南部ではムレシュ川の谷が交通路となり、南のルーマニア平原とは、南カルパティア山脈を深く刻むオルト川渓谷やプラホバ渓谷を通じて結ばれている。小麦、ブドウを生産し、ブタや牛の飼育も盛んである。天然ガス産出地帯でもある。おもな都市にクルージュ、ブラショフ、オラーデア、アラド、シビウなどがある。
[佐々田誠之助]
古代ローマ時代にはその属州ダキアの一部であった。ルーマニアの歴史学では、ローマの支配と文化を受け入れたダキア人が、その後も一貫してこの地方に居住したとされる。だがハンガリーの歴史学では、3世紀にゴート人に圧迫されてローマがその領域を縮小した際に、ダキア人は殺されるか、いっしょに南方へ去ったとされ、トランシルバニアへは9世紀にハンガリー人が先住者として定着したとする。1540年にハンガリー人の支配する公国となり、16世紀末にワラキア公国に、17世紀初頭にはトルコに支配されたが、1699年にハプスブルク帝国の領土に帰した。1867年にオーストリア・ハンガリー二重王国が成立するとハンガリー領に編入されたが、第一次世界大戦で二重王国が崩壊し、1918年12月に同地のルーマニア人がアルバ・ユーリアの大集会でルーマニアとの合併を決議した。第一次大戦後のパリ講和会議もそれを承認した。1940年8月のウィーン裁定により北部がハンガリーに与えられたが、第二次大戦末期にルーマニアが奪還した。さらに47年のパリ条約により、ルーマニアの領有権が認められた。両国のトランシルバニア領有権をめぐる最終決着は96年9月の善隣友好条約の締結で、国境不可侵とハンガリー人の少数民族としての権利の保証と引き換えに、ルーマニア領であることが認められた。
[木戸 蓊]
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…他の主要都市はコンスタンツァ,クラヨバ,プロイエシュティ,ブラショブ,シビウ,アルバ・ユリアなど。
【自然】
国土の中心にトランシルバニア盆地があり,東カルパティア,南カルパティア(トランシルバニア・アルプス),西カルパティア(ビホールBihor山地またはアプセニApuseni山地)の各山脈がこれを取り囲んでいる。カルパティア(カルパチ)山脈のまわりにはスブカルパティア山地,モルドバ丘陵,ルーマニア平原,西部平原などが広がる。…
※「トランシルバニア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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