サンジェルマン条約(読み)サンジェルマンジョウヤク(その他表記)Treaty of Saint-Germain

デジタル大辞泉 「サンジェルマン条約」の意味・読み・例文・類語

サンジェルマン‐じょうやく〔‐デウヤク〕【サンジェルマン条約】

第一次大戦後の1919年9月、サンジェルマン連合国オーストリアとの間で調印された講和条約。オーストリアは領域内のハンガリーチェコスロバキアなどの独立承認オーストリアハンガリー帝国は解体した。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「サンジェルマン条約」の意味・読み・例文・類語

サンジェルマン‐じょうやく‥デウヤク【サンジェルマン条約】

  1. 第一次世界大戦後、一九一九年九月一〇日、パリ郊外のサン‐ジェルマン‐アン‐レーで連合国とオーストリアの間に結ばれた講和条約。オーストリアは旧帝国内の異民族の解放、すなわちチェコスロバキア、セルビア人クロアチア人・スロベニア人王国(のちのユーゴスラビア)、ポーランド、ハンガリーの独立を承認し、賠償義務を決めた。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「サンジェルマン条約」の意味・わかりやすい解説

サン・ジェルマン条約 (サンジェルマンじょうやく)
Treaty of Saint-Germain

第1次世界大戦後のオーストリアと連合国の間の講和条約。サン・ジェルマンは条約が調印された(1919年9月10日)パリ西郊の町サン・ジェルマン・アン・レーを指す。連合国は,かつてのオーストリア・ハンガリー帝国内の少数民族の独立に民族自決の原則を適用する一方,しばしば戦勝国,とくにフランスの戦略的利害を優先させるという矛盾した立場をとった。こうして新オーストリア共和国は旧帝国領のうち首都ウィーンと周辺の農村および山岳地帯に限定され(戦前領土の1/4),残りはチェコスロバキア,ユーゴスラビア,イタリア,ポーランド,ルーマニアに割譲された。しかも戦略上の理由から,ドイツ系のズデーテン地方がチェコスロバキアに与えられ,同じドイツ語圏のオーストリアとドイツの合併は事実上永久に禁止された。このほかに徴兵制度の禁止,軍備縮小が規定された。また,賠償責任は規定されていたものの,一度も履行されることなくまもなく撤回され,またドイツとの合併禁止も,1938年3月,ナチス・ドイツによるアンシュルス(合邦)によって破棄された。
ベルサイユ体制
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「サンジェルマン条約」の意味・わかりやすい解説

サン・ジェルマン条約
さんじぇるまんじょうやく

第一次世界大戦後、連合国とオーストリアとの間に結ばれた講和条約。1919年9月10日、パリ郊外のサン・ジェルマンSaint-Germain宮殿で調印された。オーストリア・ハンガリー帝国は帝国内諸民族の離反のなかで1918年11月に無条件降伏した。チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ハンガリー、ポーランドの独立宣言に取り残されるように、オーストリアのドイツ人地域に、新共和国オーストリアが登場していた。これらの独立国家を承認したこの条約では、旧オーストリアの戦争責任は新生オーストリア国家にのみ課せられ、南チロールのイタリアへの譲渡など周辺諸国への領土割譲、軍備制限、賠償支払いなどが規定され、ドイツとの合併が禁止された。経済条項等に譲歩もみられたが、多くのオーストリア人はこれを過酷なものと感じ、法学者は旧帝国と新共和国の法的非連続性を主張し、国境をめぐる争議は1920年代に入っても続いた。ベルサイユ体制の一環として小国家を成立させたこの条約は新たな紛争の原因となった。

[長場真砂子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「サンジェルマン条約」の意味・わかりやすい解説

サン・ジェルマン条約【サンジェルマンじょうやく】

第1次世界大戦後の1919年9月10日,パリ北西のサン・ジェルマン・アン・レーSaint-Germain-en-Layeで連合国側とオーストリアとの間で結ばれた講和条約。オーストリア・ハンガリー二重帝国内のチェコスロバキア,セルビア・クロアティア・スロベニア王国(ユーゴスラビア),ポーランド,ハンガリーの独立が認められ,かつての大帝国は,一挙に面積・人口とも戦前の4分の1の小国に没落した。
→関連項目第1次世界大戦パリ平和会議ベルサイユ体制

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「サンジェルマン条約」の解説

サン・ジェルマン条約(サン・ジェルマンじょうやく)
Saint Germain

第一次世界大戦の結果,パリ西郊サン・ジェルマンで1919年9月10日連合国と新生オーストリア共和国が調印した講和条約。オーストリアは旧オーストリア‐ハンガリー帝国からチェコスロヴァキア,セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(ユーゴスラヴィア),ポーランドの独立,ハンガリーの分離を承認し,ハンガリーとともに賠償義務を負い,兵力を3万人に削減することなどが決められた。また同民族のドイツとの合邦も禁じられ,ブレンナー峠に至るまでの南ティロル,トリエステをイタリアに,ダルマツィア,クライン・ケルンテンの一部をユーゴスラヴィアに,ガリツィアをポーランドに割譲し,オーストリア領はかつての帝国の26.6%にとどまった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サンジェルマン条約」の意味・わかりやすい解説

サンジェルマン条約
サンジェルマンじょうやく
Peace Treaty of Saint-Germain

1919年9月 10日,第1次世界大戦の戦後処理の一環として,連合国とオーストリアがパリ西方のサンジェルマンアンレで結んだ講和条約。この条約により,オーストリア帝国内の異民族国家チェコスロバキア,セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国,ポーランド,ハンガリーの独立が承認され,またオーストリアはイタリア,ルーマニアに領土を割譲した結果,面積で戦前の4分の1,人口で3分の1になった。このほか徴兵制度の禁止,陸軍を3万人にする軍備制限,ドイツとの合併 (Anschluss) の禁止,賠償支払いなども規定された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「サンジェルマン条約」の解説

サン−ジェルマン条約
サン−ジェルマンじょうやく
Saint-Germain Treaty

第一次世界大戦後の1919年9月10日,パリ西郊のサン−ジェルマンで連合国とオーストリア間に締結された講和条約
旧帝国領からセルブ−クロアート−スロヴェーン(ユーゴスラヴィア)・ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリーが独立し,イタリアは「未回収のイタリア」を得た。人口・面積が戦前の4分の1になりオーストリア−ハンガリー帝国は崩壊,オーストリアは徴兵制,海空軍の設置,ドイツとの合併を禁止された。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のサンジェルマン条約の言及

【チロル】より

…これに対し,09年,チロルの住民はホーファーAndreas Hofer(1767‐1810)の指揮下に反乱をおこしたが,バイエルン,フランス,イタリアの連合軍に鎮圧され,チロルは三つに分割されるところとなった。14年再びオーストリア領に統合されたが,第1次大戦後のサン・ジェルマン条約(1919)によって再び分割された。北および東チロルはオーストリア領となったが,南チロルはイタリア領とされ,現在に至っている。…

【ブコビナ】より

…宗派別にみれば,ウクライナ人とルーマニア人のほとんどを含む東方正教徒が全体の71%を占め,東方正教・カトリックの合同教会派3%,カトリック11%,ルター派2.5%,ユダヤ教12%であった。18年1月,ロシア革命の影響をうけブコビナ人民会議は北ブコビナのウクライナ併合を決議したが,同年11月ルーマニア軍が占領,19年サン・ジェルマン条約によって全ブコビナがルーマニアに帰属した。ルーマニア統治期にはウクライナ人学校の閉鎖のような差別政策がとられたが,40年ソ連はベッサラビアとともに北部ブコビナへの領有権を主張して取得した。…

※「サンジェルマン条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android