日本大百科全書(ニッポニカ) 「女性運動」の意味・わかりやすい解説
女性運動
じょせいうんどう
women's movement
女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃を目ざし、男女平等を実現しようとする自覚的かつ社会的な運動をさす。なお、とくに第二次世界大戦前において日本では「婦人運動」という言い方が一般的であったが、「婦人」には既婚者など一部の女性のみに限定する意味合いがあり、「婦人運動」とすると一部の女性の運動と誤解されるおそれがあることを理由に、とりわけ1980年代以降は「女性運動」とよばれることが多くなった。その底流には、従来の「婦人運動」の理論的根拠が一定の見直しを迫られるに至った歴史的経過があるとみる。
1979年12月に国際連合総会で採択された「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(女性差別撤廃条約)第1部第1条は、「女子に対する差別」を、「性に基づく区別、排除又は制限であつて、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のいかなる分野においても、女子(婚姻をしているかいないかを問わない)が男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする効果又は目的を有するものをいう」と定義している。
[布施晶子]
女性運動のあけぼの
性差別が問題として自覚され、その撤廃を目ざす運動が社会的に展開されるのは18世紀後半以降のことである。その基底には、封建社会の内部でマニュファクチュアの発展とともに成長した新興ブルジョアジーの思想(政治的、社会的な自由と平等を求める思想)の影響があった。事実、300年にわたる絶対王制にとどめを刺したフランス革命にせよ、イギリス本国の植民地弾圧政策に対して立ち上がったアメリカ独立戦争にせよ、近代的平等要求を掲げての闘いであり、これに参加した女性たちの胸にもこの真理は刻み込まれる。しかし、ひとたび革命が成就(じょうじゅ)した暁において、また戦争が終結した段階において、平等とは男性相互間の平等の追求であったことが判然とする。「女性は断頭台に登る権利をもつのだから演壇に登る権利をもつべきである」(1789)と主張し政治集会を開いたグージュMarie-Olympe de Gouge(1748―93)がジャコバン派の手により断頭台の露と消えた歴史、独立後の新憲法にみる女性の政治的権利は植民地時代よりも後退しており、アダムズAbigail Smith Adams(1744―1818)をして「もし憲法が女性の選挙権を認めなければ女性は共和国の法律に従う必要はない」(1783)といわせた史実は、近代社会の幕開けにおいて「人間」として認められなかった女性の社会的地位を明確に物語る。イギリスでは、ウルストンクラフトMary Wollstonecraft(1759―97)がフランス革命に強い影響を受けながら『女性の権利の擁護』(1792)を執筆したが、その思想を真摯(しんし)に受け止めるものは限られていた。
[布施晶子]
女性運動の展開
女性運動における平等要求の中心は政治的な同権を要求する運動=参政権獲得運動に置かれた。たとえば、イギリスでは、1866年に女性参政権協会が結成され、翌年にはJ・S・ミルによって女性参政権法案が提出される。女性参政権協会を合併した組織、女性参政権協会全国同盟と女性社会政治同盟は参政権獲得を目ざし活発な活動を展開する。とくに後者の指導者パンクハーストEmmeline Pankhurst(1858―1928)率いるグループは「ことばでなく行動を」をスローガンに、放火、投石、刑務所内でのハンストなど、世間の関心をひきつけるための直接的行動で闘った。これらの運動が実ってイギリスにおける女性参政権が獲得されるのは1918年のことである。しかし、このときに参政権を与えられたのは30歳以上の女性であった。この年齢資格が男女平等になるにはさらに10年の月日を要した。成年男子の選挙権獲得を掲げて闘ったチャーティスト運動の激しい闘い(1836~48)のときから70年を要している。
一方、1848年、女性の権利の大会を開いて女性参政権の決議を行ったアメリカの女性たちは、南北戦争後の憲法改正において、奴隷の市民権・選挙権が認められたにもかかわらず、女性参政権が認められなかった現実を前に、奴隷以下の境遇に甘んじなければならない自らの状態を自らの手で解放する運動を繰り広げる。1869年、ワイオミング準州で女性参政権が認められるが、憲法を改正してアメリカ全土の女性参政権が認められるには1920年を待たなければならなかった。女性参政権運動の担い手は、おおむね人権思想に目覚めた中産階級の女性であった。高等教育や専門職への進出要求もまた旺盛(おうせい)な知識欲を備えた中産階級の女性たちの不満を基礎に展開された。
また一方、しだいに増加する労働者階級の一翼を占める女性労働者、日々の生活を支えるために機械化の進む工場で長時間労働を強いられ政治的関心を抱く暇もない女性労働者も、そのあまりにも過酷な労働条件から、生まれいずる新しい生命を守るためにおのずと自覚的なきずなを強め始め、参政権運動にも積極的に参加していく。とくに1864年に創立された労働者階級の最初の国際組織、第一インターナショナルは、夜間労働その他母性に有害な作用を及ぼす作業を禁止する要求を掲げ、ヨーロッパ諸国における工場法立法獲得に大きな影響を与えた。さらに第二インターナショナルにおいても、女性労働者の保護に加えて労働組合への組織化、同一労働同一賃金などの決議が採択されるなど女性労働への貢献は大きかった。第二インターナショナルの指導のもと、1910年に開かれた第2回国際社会主義婦人会議の席上、ドイツの女性運動の指導者ツェトキンClara Zetkin(1857―1933)の提唱により国際婦人デーの開催が決定された。これは、1年前の3月8日、不景気でどん底のアメリカ、ニューヨークの下町イースト・サイドで、生活の重荷に耐えかねた女性たちが「パンをよこせ」「女性に参政権を」と街頭でデモンストレーションをした行動に対する国際的な連帯の誓いを込めての提唱であり、以後、またたくまに各国で開催されるに至る。とくに、1917年3月8日、ロシア、ペトログラード(現サンクト・ペテルブルグ)の女性労働者は、「帝国主義戦争反対」「夫や息子を返せ」「わが子にパンを与えよ」と大デモを繰り広げ、ストライキを宣言したが、これがロシア革命の序曲となった。
中産階級の女性たちと労働者階級の女性たちは参政権運動をともに闘うが、資本主義体制に対する視点の相違を基礎に運動の目的には大きな相違がみられた。しかしながら戦雲急を告げるなか、反ファシズム統一戦線において幅広い統一行動が展開されていく。
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第二次世界大戦後の女性運動
第二次世界大戦後の国際的な女性運動の特徴はこれを大きく四つの点から指摘しうる。第一に、20世紀の前半から中葉にかけて、先進資本主義諸国においては女性運動の積年の課題=参政権獲得が達成され、運動の中心は教育や職業、家庭生活における実質的平等の追求へと切り替わっていった。一方、開発途上国においては、1950年代以降の植民地独立運動と歩を並べて女性の参政権獲得が実現されていく。
第二に、ロシア革命以降、社会主義国ソビエトにおいて女性の社会的地位の向上が追求されてきたが、アジアや東欧などにおいて新たに社会主義への道を歩み始めた諸国においても、おのおのの歴史を踏まえた一連の施策が打ち出され、政治=経済体制の相違に基づく女性の状態や施策の相違が検討されるに至った。しかし、1980年代以降、ソビエトにおけるグラスノスチ(情報公開)が、社会主義政治体制のもとでの女性の社会的地位の実像を全世界に伝えるに至り、女性の抑圧と差別が政治・経済体制の違いを超えて存在してきた歴史と現実が浮かび上がった。
第三に、1960年代後半以降、アメリカを中心に展開されたウーマン・リブの台頭が指摘される。意識変革を直接行動に結び付ける傾向の強いリブ運動は、不平等に対する憤激から「男敵論」を振りかざすものも含めて多様な組織を結成した。その影響はヨーロッパや日本にも及び、運動の展開がみられるとともに、その運動を支える理論的支柱をなす第二次フェミニズム理論の構築に向けて数多くの著作が世に問われた。
第四に、国連を中心とする女性運動の盛り上がりがあげられる。国連憲章や世界人権宣言がうたい上げた平等の精神は、女性差別撤廃宣言の採択を経て国際婦人年(1975)におけるメキシコ宣言と世界行動計画、そして女性差別撤廃条約に結実した。国際婦人年が掲げる三つのスローガン(平等・発展・平和)は、女性解放が平和と民族自決の課題に密接に結び付くものであることを教えるとともに、伝統的な性役割の見直しを鋭く迫るものであった。1985年の「国連婦人の10年」ナイロビ世界会議(第3回世界女性会議)における「国連婦人の10年」の総括、そしてまた21世紀に向けての青写真は「婦人の地位向上のための将来戦略」(ナイロビ将来戦略)に集大成された。さらに95年、中国北京(ペキン)における「国連婦人の20年」の総括会議(第4回世界女性会議)を経て、世界各国における実情を踏まえ、性差別を克服し真の男女平等を実現するための青写真づくりが追求されてきた。
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日本の女性運動
第二次世界大戦前
第二次世界大戦前の日本の「婦人運動」の揺籃(ようらん)期、その思想的な支え手となった自由民権論者たちの眼(まなこ)は、家父長制下のイエにおける夫婦間の不平等に向けられ、ついで男女平等の参政権に向けられた。自由民権運動の影響は日本資本主義の原始的蓄積期における工場労働の担い手=女性労働者にも及び、1886年(明治19)山梨県甲府の雨宮(あめみや)製糸工場では長時間労働と賃下げに反対する日本で初めてのストライキに勝利しているが、弾圧の嵐(あらし)のなかで自由民権運動が敗北や妥協の道を歩むにつれ、「婦人運動」に対する理解を大きく後退させ、影響力も失われていく。1890年の「集会及び政社法」が女性の政治集会出席や結社加入を禁止し、旧民法が妻の無能力を規定するなど、政府の女性・家庭政策が着々と進むなか、民権運動家から社会主義者への道を歩み、雑誌『世界婦人』を刊行し(1907)、日本の「婦人運動」に国際的視野を開いた福田英子(ひでこ)の存在が光る。
大逆事件の弾圧により社会運動が冬の時代を迎えた1911年(明治44)、雑誌『青鞜(せいとう)』が刊行された。恋愛の自由と個人主義の強調により家父長制的家族制度と闘う主張は、当時の社会に広く女性問題を知らせる役割を果たした。のち、リーダーの平塚らいてうらを中心に新婦人協会が結成(1919)され治安警察法改正運動を展開、22年(大正11)政党加入を除く政治運動の自由をかちとる。しかし、翌年結成の婦人参政同盟を中心とする運動にもかかわらず、「婦人参政権」の実現は第二次世界大戦後に持ち越された。
ロシア革命の影響は生活苦にあえぐ日本の労働者や農民にも及び、米騒動やストライキが相次ぐが、この時期、友愛会から日本労働総同盟へと脱皮を遂げつつあった労働者組織が分裂、改良主義に反対し社会変革の立場を明確にした日本労働組合評議会には婦人部協議会が結成され、労働組合婦人部設置の是非をめぐる論争がおこる。しかし、日本が十五年戦争への歩みを進めるなか、「婦人運動」を担うすべての団体は解散を命じられ、全国の女性団体は銃後の守りを任務とする大日本婦人会への加入を強制される。経済、社会、政治、文化のいっさいが聖戦の名のもとに統制され、これに従属しないものはすべて圧殺される状況下において、「生めよ殖(ふ)やせよ」の掛け声のもと有史以来初めて母性に光が当てられた。
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第二次世界大戦後
日本の女性運動が本格的に発展するのは第二次世界大戦後のことである。戦後の女性運動は、社会・経済状態に照応した運動課題の推移に即して、これを4期(1945~54年の第1期、55~72年の第2期、73年~85年の第3期、86年以降の第4期)に区分できる。
第1期は、飢餓との闘い、法的平等の獲得と反封建・民主主義的諸権利の拡大、基地反対・再軍備反対闘争、そして女性団体結成などの特徴をもつ。選挙法改正により参政権が実現、民法改正により家父長制的家族制度は廃止され、労働基準法が男女同一労働同一賃金および母性保護条項を掲げるなど、法的平等の獲得がいっそう実質的平等との乖離(かいり)を痛感させ、また再軍備の危険性が察知されるなかで女性団体の組織化が進む。戦前期、公・私娼(しょう)廃止運動を展開した日本キリスト教婦人矯風会(きょうふうかい)などの女性団体が復活するとともに、新日本婦人同盟(創設1945年。50年に日本婦人有権者同盟に改称)、婦人民主クラブ(創設1946年)など戦前期からのリーダーによる新しい女性団体の結成がなされ、労働組合婦人部の組織化が進む。主婦連合会や戦前期の婦人会組織がGHQ(連合国最高司令官総司令部)の指導により再組織化された全国地域婦人団体連絡協議会の結成もみられた。
1955年(昭和30)結成の日本母親大会は第2期の幕開けを告げる。暮らしと子供、平和、民主的諸権利の三つの柱のもとに日本の全階層の女性が連帯した組織の誕生は大衆的女性運動の確立という点でも画期的であった。保育所づくり運動、小児麻痺(まひ)生(なま)ワクチン輸入・投与要求運動、高校全入運動、物価値上げ反対運動、公害・環境破壊に対する運動、原水爆禁止運動、安保反対闘争などを闘うなかで「あたりまえの女たち」が鍛えられていく。「合理化」による人減らしや母性保護の既得権の剥奪(はくだつ)、職業病との闘いなどを通して鍛えられる女性労働者のなかからは、裁判闘争に持ち込んでも不当な男女差別を撤廃しようとする層が成長していく。
国際婦人年に象徴される第3期には、女性問題の社会的周知徹底が図られるとともに、運動に国際的な広がりがもたらされた。日本の女性運動は、どちらかといえば母親による運動、子供を守る運動、主婦として生活を守る運動に比重を置き、性差別の基礎に横たわる性別分業構造そのものの検討は遅れをみせていた。しかし、ウーマン・リブの影響を経て、国際婦人年の問題提起とそれに引き続く10年の運動は、改めて国民に21世紀へ向けての男女の望ましき関係の模索を迫ることになった。同時に、女性差別撤廃条約批准(1985)の前提として提示された男女雇用機会均等法が、労働基準法改定に伴う母性保護諸規定の見直しと抱き合わせで国会に提出された経過は、真の男女平等とは何かという根本的な問題の検討を迫るところとなった。
1986年の男女雇用機会均等法施行以降の第4期(1986~)についてみるとき、男女平等の一定の進展と同性間の不平等の顕在化という、二律背反的な状況の深化と、そうした状況の克服を目ざす運動の展開が特徴として浮かび上がる。男女雇用機会均等法施行の前後から、従来その大半が男性によって占められていた職種への女性の進出が進んだ。しかし、その一方でパートタイマーに代表される不安定就労者の数が増す。こうして、男性と肩を並べて就労する女性が一定程度増加した一方で、女性間の格差が鮮明になった側面を見逃せない。
しかし、1960年代以降の女性と男性の関係をめぐる諸変革のなかでとまどいの色の濃い男性と比べて、積極的に労働と生活の場の改革に取り組むなかで、自らの意識改革と同時に、女性の人間としての生き方を規制し抑圧してきた社会的諸条件の改革に取り組む女性たちの運動は、とぎれることなく続いている。99年(平成11)春の地方議会選挙の立候補者、当選者中、女性の占める割合は第二次世界大戦後で最多であった。さらに、2000年春には大阪府に全国初の女性知事が誕生するなど、地方自治のトップの座につく女性が出現した。このように、女性が自らの能力の開花とともに市民生活の向上を目ざす運動に参加する運動もまた、女性問題の解決に結び付く可能性をもつ限り、女性運動の範疇(はんちゅう)に含められる。
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『三井礼子著『現代婦人労働史年表』(1963・三一書房)』▽『ベティ・フリーダン著、三浦富美子訳『新しい女性の創造』(1970・大和書房)』▽『米田佐代子著『近代日本女性史』上下(1972・新日本出版社)』▽『現代史出版会編集部編『国際婦人年メキシコ会議の記録』(1975・現代史出版会)』▽『市川房枝ほか編『日本婦人問題資料集成』全10巻(1976~81・ドメス出版)』▽『水田珠枝著『女性解放思想史』(1979・筑摩書房)』▽『メアリ・ウルストンクラーフト著、白井尭子訳『女性の権利の擁護』(1980・未来社)』▽『伊藤セツ著『クララ・ツェトキンの婦人解放論』(1984・有斐閣)』▽『婦人研究者グループ編『世界女性の将来戦略 「婦人の地位向上のためのナイロビ将来戦略」全文収録』(1986・草の根出版会)』▽『竹中恵美子著『女性論のフロンティア――平等から衡平へ』(1995・創元社)』▽『村松安子・村松泰子編『エンパワーメントの女性学』(1995・有斐閣)』▽『鎌田とし子・矢沢澄子・木本喜美子編『講座社会学14 ジェンダー』(1999・東京大学出版会)』▽『阿部恒久・佐藤能丸著『通史と史料 日本近現代女性史』(2000・芙蓉書房出版)』▽『石月静恵著『戦間期の女性運動』新装版(2001・東方出版)』▽『A・ベーベル著、草間平作訳『改訳 婦人論』(岩波文庫)』