女性運動(読み)じょせいうんどう(英語表記)women's movement

翻訳|women's movement

日本大百科全書(ニッポニカ) 「女性運動」の意味・わかりやすい解説

女性運動
じょせいうんどう
women's movement

女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃を目ざし、男女平等を実現しようとする自覚的かつ社会的な運動をさす。なお、とくに第二次世界大戦前において日本では「婦人運動」という言い方が一般的であったが、「婦人」には既婚者など一部の女性のみに限定する意味合いがあり、「婦人運動」とすると一部の女性の運動と誤解されるおそれがあることを理由に、とりわけ1980年代以降は「女性運動」とよばれることが多くなった。その底流には、従来の「婦人運動」の理論的根拠が一定の見直しを迫られるに至った歴史的経過があるとみる。

 1979年12月に国際連合総会で採択された「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(女性差別撤廃条約)第1部第1条は、「女子に対する差別」を、「性に基づく区別、排除又は制限であつて、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のいかなる分野においても、女子(婚姻をしているかいないかを問わない)が男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする効果又は目的を有するものをいう」と定義している。

[布施晶子]

女性運動のあけぼの

性差別が問題として自覚され、その撤廃を目ざす運動が社会的に展開されるのは18世紀後半以降のことである。その基底には、封建社会の内部でマニュファクチュアの発展とともに成長した新興ブルジョアジーの思想(政治的、社会的な自由と平等を求める思想)の影響があった。事実、300年にわたる絶対王制にとどめを刺したフランス革命にせよ、イギリス本国の植民地弾圧政策に対して立ち上がったアメリカ独立戦争にせよ、近代的平等要求を掲げての闘いであり、これに参加した女性たちの胸にもこの真理は刻み込まれる。しかし、ひとたび革命が成就(じょうじゅ)した暁において、また戦争が終結した段階において、平等とは男性相互間の平等の追求であったことが判然とする。「女性は断頭台に登る権利をもつのだから演壇に登る権利をもつべきである」(1789)と主張し政治集会を開いたグージュMarie-Olympe de Gouge(1748―93)がジャコバン派の手により断頭台の露と消えた歴史、独立後の新憲法にみる女性の政治的権利は植民地時代よりも後退しており、アダムズAbigail Smith Adams(1744―1818)をして「もし憲法が女性の選挙権を認めなければ女性は共和国の法律に従う必要はない」(1783)といわせた史実は、近代社会の幕開けにおいて「人間」として認められなかった女性の社会的地位を明確に物語る。イギリスでは、ウルストンクラフトMary Wollstonecraft(1759―97)がフランス革命に強い影響を受けながら『女性の権利の擁護』(1792)を執筆したが、その思想を真摯(しんし)に受け止めるものは限られていた。

[布施晶子]

女性運動の展開

女性運動における平等要求の中心は政治的な同権を要求する運動=参政権獲得運動に置かれた。たとえば、イギリスでは、1866年に女性参政権協会が結成され、翌年にはJ・S・ミルによって女性参政権法案が提出される。女性参政権協会を合併した組織、女性参政権協会全国同盟と女性社会政治同盟は参政権獲得を目ざし活発な活動を展開する。とくに後者の指導者パンクハーストEmmeline Pankhurst(1858―1928)率いるグループは「ことばでなく行動を」をスローガンに、放火、投石、刑務所内でのハンストなど、世間の関心をひきつけるための直接的行動で闘った。これらの運動が実ってイギリスにおける女性参政権が獲得されるのは1918年のことである。しかし、このときに参政権を与えられたのは30歳以上の女性であった。この年齢資格が男女平等になるにはさらに10年の月日を要した。成年男子の選挙権獲得を掲げて闘ったチャーティスト運動の激しい闘い(1836~48)のときから70年を要している。

 一方、1848年、女性の権利の大会を開いて女性参政権の決議を行ったアメリカの女性たちは、南北戦争後の憲法改正において、奴隷の市民権・選挙権が認められたにもかかわらず、女性参政権が認められなかった現実を前に、奴隷以下の境遇に甘んじなければならない自らの状態を自らの手で解放する運動を繰り広げる。1869年、ワイオミング準州で女性参政権が認められるが、憲法を改正してアメリカ全土の女性参政権が認められるには1920年を待たなければならなかった。女性参政権運動の担い手は、おおむね人権思想に目覚めた中産階級の女性であった。高等教育や専門職への進出要求もまた旺盛(おうせい)な知識欲を備えた中産階級の女性たちの不満を基礎に展開された。

 また一方、しだいに増加する労働者階級の一翼を占める女性労働者、日々の生活を支えるために機械化の進む工場で長時間労働を強いられ政治的関心を抱く暇もない女性労働者も、そのあまりにも過酷な労働条件から、生まれいずる新しい生命を守るためにおのずと自覚的なきずなを強め始め、参政権運動にも積極的に参加していく。とくに1864年に創立された労働者階級の最初の国際組織、第一インターナショナルは、夜間労働その他母性に有害な作用を及ぼす作業を禁止する要求を掲げ、ヨーロッパ諸国における工場法立法獲得に大きな影響を与えた。さらに第二インターナショナルにおいても、女性労働者の保護に加えて労働組合への組織化、同一労働同一賃金などの決議が採択されるなど女性労働への貢献は大きかった。第二インターナショナルの指導のもと、1910年に開かれた第2回国際社会主義婦人会議の席上、ドイツの女性運動の指導者ツェトキンClara Zetkin(1857―1933)の提唱により国際婦人デーの開催が決定された。これは、1年前の3月8日、不景気でどん底のアメリカ、ニューヨークの下町イースト・サイドで、生活の重荷に耐えかねた女性たちが「パンをよこせ」「女性に参政権を」と街頭でデモンストレーションをした行動に対する国際的な連帯の誓いを込めての提唱であり、以後、またたくまに各国で開催されるに至る。とくに、1917年3月8日、ロシア、ペトログラード(現サンクト・ペテルブルグ)の女性労働者は、「帝国主義戦争反対」「夫や息子を返せ」「わが子にパンを与えよ」と大デモを繰り広げ、ストライキを宣言したが、これがロシア革命の序曲となった。

 中産階級の女性たちと労働者階級の女性たちは参政権運動をともに闘うが、資本主義体制に対する視点の相違を基礎に運動の目的には大きな相違がみられた。しかしながら戦雲急を告げるなか、反ファシズム統一戦線において幅広い統一行動が展開されていく。

[布施晶子]

第二次世界大戦後の女性運動

第二次世界大戦後の国際的な女性運動の特徴はこれを大きく四つの点から指摘しうる。第一に、20世紀の前半から中葉にかけて、先進資本主義諸国においては女性運動の積年の課題=参政権獲得が達成され、運動の中心は教育や職業、家庭生活における実質的平等の追求へと切り替わっていった。一方、開発途上国においては、1950年代以降の植民地独立運動と歩を並べて女性の参政権獲得が実現されていく。

 第二に、ロシア革命以降、社会主義国ソビエトにおいて女性の社会的地位の向上が追求されてきたが、アジアや東欧などにおいて新たに社会主義への道を歩み始めた諸国においても、おのおのの歴史を踏まえた一連の施策が打ち出され、政治=経済体制の相違に基づく女性の状態や施策の相違が検討されるに至った。しかし、1980年代以降、ソビエトにおけるグラスノスチ(情報公開)が、社会主義政治体制のもとでの女性の社会的地位の実像を全世界に伝えるに至り、女性の抑圧と差別が政治・経済体制の違いを超えて存在してきた歴史と現実が浮かび上がった。

 第三に、1960年代後半以降、アメリカを中心に展開されたウーマン・リブの台頭が指摘される。意識変革を直接行動に結び付ける傾向の強いリブ運動は、不平等に対する憤激から「男敵論」を振りかざすものも含めて多様な組織を結成した。その影響はヨーロッパや日本にも及び、運動の展開がみられるとともに、その運動を支える理論的支柱をなす第二次フェミニズム理論の構築に向けて数多くの著作が世に問われた。

 第四に、国連を中心とする女性運動の盛り上がりがあげられる。国連憲章や世界人権宣言がうたい上げた平等の精神は、女性差別撤廃宣言の採択を経て国際婦人年(1975)におけるメキシコ宣言と世界行動計画、そして女性差別撤廃条約に結実した。国際婦人年が掲げる三つのスローガン(平等・発展・平和)は、女性解放が平和と民族自決の課題に密接に結び付くものであることを教えるとともに、伝統的な性役割の見直しを鋭く迫るものであった。1985年の「国連婦人の10年」ナイロビ世界会議(第3回世界女性会議)における「国連婦人の10年」の総括、そしてまた21世紀に向けての青写真は「婦人の地位向上のための将来戦略」(ナイロビ将来戦略)に集大成された。さらに95年、中国北京(ペキン)における「国連婦人の20年」の総括会議(第4回世界女性会議)を経て、世界各国における実情を踏まえ、性差別を克服し真の男女平等を実現するための青写真づくりが追求されてきた。

[布施晶子]

日本の女性運動

第二次世界大戦前

第二次世界大戦前の日本の「婦人運動」の揺籃(ようらん)期、その思想的な支え手となった自由民権論者たちの眼(まなこ)は、家父長制下のイエにおける夫婦間の不平等に向けられ、ついで男女平等の参政権に向けられた。自由民権運動の影響は日本資本主義の原始的蓄積期における工場労働の担い手=女性労働者にも及び、1886年(明治19)山梨県甲府の雨宮(あめみや)製糸工場では長時間労働と賃下げに反対する日本で初めてのストライキに勝利しているが、弾圧の嵐(あらし)のなかで自由民権運動が敗北や妥協の道を歩むにつれ、「婦人運動」に対する理解を大きく後退させ、影響力も失われていく。1890年の「集会及び政社法」が女性の政治集会出席や結社加入を禁止し、旧民法が妻の無能力を規定するなど、政府の女性・家庭政策が着々と進むなか、民権運動家から社会主義者への道を歩み、雑誌『世界婦人』を刊行し(1907)、日本の「婦人運動」に国際的視野を開いた福田英子(ひでこ)の存在が光る。

 大逆事件の弾圧により社会運動が冬の時代を迎えた1911年(明治44)、雑誌『青鞜(せいとう)』が刊行された。恋愛の自由と個人主義の強調により家父長制的家族制度と闘う主張は、当時の社会に広く女性問題を知らせる役割を果たした。のち、リーダーの平塚らいてうらを中心に新婦人協会が結成(1919)され治安警察法改正運動を展開、22年(大正11)政党加入を除く政治運動の自由をかちとる。しかし、翌年結成の婦人参政同盟を中心とする運動にもかかわらず、「婦人参政権」の実現は第二次世界大戦後に持ち越された。

 ロシア革命の影響は生活苦にあえぐ日本の労働者や農民にも及び、米騒動やストライキが相次ぐが、この時期、友愛会から日本労働総同盟へと脱皮を遂げつつあった労働者組織が分裂、改良主義に反対し社会変革の立場を明確にした日本労働組合評議会には婦人部協議会が結成され、労働組合婦人部設置の是非をめぐる論争がおこる。しかし、日本が十五年戦争への歩みを進めるなか、「婦人運動」を担うすべての団体は解散を命じられ、全国の女性団体は銃後の守りを任務とする大日本婦人会への加入を強制される。経済、社会、政治、文化のいっさいが聖戦の名のもとに統制され、これに従属しないものはすべて圧殺される状況下において、「生めよ殖(ふ)やせよ」の掛け声のもと有史以来初めて母性に光が当てられた。

[布施晶子]

第二次世界大戦後

日本の女性運動が本格的に発展するのは第二次世界大戦後のことである。戦後の女性運動は、社会・経済状態に照応した運動課題の推移に即して、これを4期(1945~54年の第1期、55~72年の第2期、73年~85年の第3期、86年以降の第4期)に区分できる。

 第1期は、飢餓との闘い、法的平等の獲得と反封建・民主主義的諸権利の拡大、基地反対・再軍備反対闘争、そして女性団体結成などの特徴をもつ。選挙法改正により参政権が実現、民法改正により家父長制的家族制度は廃止され、労働基準法が男女同一労働同一賃金および母性保護条項を掲げるなど、法的平等の獲得がいっそう実質的平等との乖離(かいり)を痛感させ、また再軍備の危険性が察知されるなかで女性団体の組織化が進む。戦前期、公・私娼(しょう)廃止運動を展開した日本キリスト教婦人矯風会(きょうふうかい)などの女性団体が復活するとともに、新日本婦人同盟(創設1945年。50年に日本婦人有権者同盟に改称)、婦人民主クラブ(創設1946年)など戦前期からのリーダーによる新しい女性団体の結成がなされ、労働組合婦人部の組織化が進む。主婦連合会や戦前期の婦人会組織がGHQ(連合国最高司令官総司令部)の指導により再組織化された全国地域婦人団体連絡協議会の結成もみられた。

 1955年(昭和30)結成の日本母親大会は第2期の幕開けを告げる。暮らしと子供、平和、民主的諸権利の三つの柱のもとに日本の全階層の女性が連帯した組織の誕生は大衆的女性運動の確立という点でも画期的であった。保育所づくり運動、小児麻痺(まひ)生(なま)ワクチン輸入・投与要求運動、高校全入運動、物価値上げ反対運動、公害・環境破壊に対する運動、原水爆禁止運動、安保反対闘争などを闘うなかで「あたりまえの女たち」が鍛えられていく。「合理化」による人減らしや母性保護の既得権の剥奪(はくだつ)、職業病との闘いなどを通して鍛えられる女性労働者のなかからは、裁判闘争に持ち込んでも不当な男女差別を撤廃しようとする層が成長していく。

 国際婦人年に象徴される第3期には、女性問題の社会的周知徹底が図られるとともに、運動に国際的な広がりがもたらされた。日本の女性運動は、どちらかといえば母親による運動、子供を守る運動、主婦として生活を守る運動に比重を置き、性差別の基礎に横たわる性別分業構造そのものの検討は遅れをみせていた。しかし、ウーマン・リブの影響を経て、国際婦人年の問題提起とそれに引き続く10年の運動は、改めて国民に21世紀へ向けての男女の望ましき関係の模索を迫ることになった。同時に、女性差別撤廃条約批准(1985)の前提として提示された男女雇用機会均等法が、労働基準法改定に伴う母性保護諸規定の見直しと抱き合わせで国会に提出された経過は、真の男女平等とは何かという根本的な問題の検討を迫るところとなった。

 1986年の男女雇用機会均等法施行以降の第4期(1986~)についてみるとき、男女平等の一定の進展と同性間の不平等の顕在化という、二律背反的な状況の深化と、そうした状況の克服を目ざす運動の展開が特徴として浮かび上がる。男女雇用機会均等法施行の前後から、従来その大半が男性によって占められていた職種への女性の進出が進んだ。しかし、その一方でパートタイマーに代表される不安定就労者の数が増す。こうして、男性と肩を並べて就労する女性が一定程度増加した一方で、女性間の格差が鮮明になった側面を見逃せない。

 しかし、1960年代以降の女性と男性の関係をめぐる諸変革のなかでとまどいの色の濃い男性と比べて、積極的に労働と生活の場の改革に取り組むなかで、自らの意識改革と同時に、女性の人間としての生き方を規制し抑圧してきた社会的諸条件の改革に取り組む女性たちの運動は、とぎれることなく続いている。99年(平成11)春の地方議会選挙の立候補者、当選者中、女性の占める割合は第二次世界大戦後で最多であった。さらに、2000年春には大阪府に全国初の女性知事が誕生するなど、地方自治のトップの座につく女性が出現した。このように、女性が自らの能力の開花とともに市民生活の向上を目ざす運動に参加する運動もまた、女性問題の解決に結び付く可能性をもつ限り、女性運動の範疇(はんちゅう)に含められる。

[布施晶子]

『三井礼子著『現代婦人労働史年表』(1963・三一書房)』『ベティ・フリーダン著、三浦富美子訳『新しい女性の創造』(1970・大和書房)』『米田佐代子著『近代日本女性史』上下(1972・新日本出版社)』『現代史出版会編集部編『国際婦人年メキシコ会議の記録』(1975・現代史出版会)』『市川房枝ほか編『日本婦人問題資料集成』全10巻(1976~81・ドメス出版)』『水田珠枝著『女性解放思想史』(1979・筑摩書房)』『メアリ・ウルストンクラーフト著、白井尭子訳『女性の権利の擁護』(1980・未来社)』『伊藤セツ著『クララ・ツェトキンの婦人解放論』(1984・有斐閣)』『婦人研究者グループ編『世界女性の将来戦略 「婦人の地位向上のためのナイロビ将来戦略」全文収録』(1986・草の根出版会)』『竹中恵美子著『女性論のフロンティア――平等から衡平へ』(1995・創元社)』『村松安子・村松泰子編『エンパワーメントの女性学』(1995・有斐閣)』『鎌田とし子・矢沢澄子・木本喜美子編『講座社会学14 ジェンダー』(1999・東京大学出版会)』『阿部恒久・佐藤能丸著『通史と史料 日本近現代女性史』(2000・芙蓉書房出版)』『石月静恵著『戦間期の女性運動』新装版(2001・東方出版)』『A・ベーベル著、草間平作訳『改訳 婦人論』(岩波文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「女性運動」の意味・わかりやすい解説

女性運動 (じょせいうんどう)

女性の生活改善,地位の向上,解放をめざす社会運動。

女性運動は近代社会の産物である。封建的共同体の崩壊と産業革命による家族の変質の結果,家族に包摂されてきた女性の生活は不安定になり,他方,自由と平等を説く近代の人間解放思想は,女性に自分のおかれた差別と依存の状態を認識させた。このような社会的・思想的変動のなかで,女性は自分の生き方を模索し,状況の変革を求めるようになる。その要求を組織的運動を通じて実現しようとしたのが女性運動である。女性の要求が生活全般にわたるものであることから,女性運動の内容も,家事の合理化,慈善事業,売春禁止,教育における男女平等,職業労働における男女平等,公法上・民法上の諸権利,反戦・平和など多様である。これらの女性運動は,女性の生きるべき状態をつくりだそうという共通の理念をもっているとはいえ,現状の把握と将来の展望について意見が一致しているのではない。

たとえば,慈善事業,奉仕活動が女性の生きがいだとする運動と,職業労働こそが女性の地位向上の要件だとする運動とでは,方向は大きく分かれる。また従来の社会主義では,ベーベルが主張したように,女性運動を階級によってブルジョア的女性運動とプロレタリア的女性運動に分け,権利を要求するブルジョア的女性運動には限界があり,社会主義がめざすプロレタリア的女性運動こそが女性全体の課題を解決するとした。しかし,女性運動におけるより大きなそして長期にわたる対立は,家族をめぐるそれであった。家族は,一面では男女の性別役割分業と性格形成を通して性差別を維持し再生産してきたが,他面では女性の生活保障の場でもあった。家族の性差別的構造を批判して家族の紐帯を弱めていくのか,家族の枠組みを強化しそのなかで女性の生活改善を図るのかで,運動の方向は分かれる。

 最後の対立は,現在まで続いている,というより,先進国の大部分で女性参政権が実現した20世紀後半には,一層顕著になってきた。特に1970年代以降には,男女の性別役割分業に基礎をおく核家族への批判が強まる一方で,家庭崩壊,育児・介護,女性の就職難の問題が深刻化し,それを解決する道として家族の維持強化が要求され,また宗教的立場からの家族擁護,生殖に対する女性の権利の否定も主張されている。さらに第三世界では,先進国による収奪への抵抗と,従来の女性運動は白人女性の運動であったという批判に立って,人種固有の家族と共同体の強化が主張されている。国際婦人年以来,女性運動がグローバル化した現在,どこに運動の方向を設定するのかが世界的課題となっている。

各国の女性運動は,女性のかかえる多様な問題に取り組みながら,それぞれの国の事情を反映して,その性格には差がみられる。

世界にさきがけて産業革命を経験したイギリスでは,家庭での生産活動がなくなり存在理由を見いだせなくなった女性たちが,貧民救済などの慈善事業に活動の場を求めた。19世紀に入って広範な女性をひきつけた慈善事業が土台となって,婦人参政権運動をはじめとし,女性の社会的活動の機会拡大のための運動,女性の人権のための運動が展開された。女子教育を要求する運動は,没落階級の女性の救済として始められ,1841年には,住込みの家庭教師(ガバネスgoverness)として働く女性のために〈家庭教師慈善協会〉が設立され,女性の高等教育機関として,48年にJ.F.D.モーリスらによってロンドンにクィーンズ・カレッジ,49年にリードElizabeth Reidによってベドフォード・カレッジが開設された。こうした運動のうえにアカデミズムの牙城オックスフォード大学,ケンブリッジ大学,ロンドン大学への入学を要求する女性があらわれ,とくに医学を志す女性はさまざまな迫害と闘いながら,教育の機会均等のために努力をした。

 職業労働についてみると,女性は家庭内の仕事を失った代りに,家庭外で女子労働の領域を拡大していった。19世紀中葉には,女性の雇用を促進する組織がつくられ,事務員,店員に女性が進出し,ミシン,タイプライターの導入により,その技術も身につけるようになった。F.ナイチンゲールは,看護婦を女性の職業として確立した。女性の労働条件は男性に比べて一般に劣悪で,それに対しては,たとえば1888年のマッチ工場の女子労働者のストライキのような闘争も行われた。しかし,女性が男性と同等な立場で労働することは,資本からも男性労働者からも歓迎されなかった。資本は女性労働者を産業予備軍として景気変動の安全弁に利用し,労働組合は女性にだけ労働時間の短縮を含む諸規制を課することを要求し,女性運動を進める運動家たちと対立した。第1次,第2次両大戦には,女性は男性に代わってさまざまな職業に従事し,女性が労働者として能力をもつことを示した。

 民法上の諸権利を要求する運動は,C.E.S.ノートンが,既婚女性を無能力者とする法律に対し反対のキャンペーンを行ったことが契機となった。この運動が結実し,既婚女性が夫とは独立に財産権をもつようになったのは1882年のことであり,子どもに対する父母の平等な親権が認められたのは1925年である。

 19世紀の後半には,売春禁止運動廃娼運動)が開始された。1864年には軍事基地に公娼がおかれ,69年に売春婦あるいはそれと推定された女性に検診を義務づける〈性病法Contagious Diseases Act〉が制定された。J.E.バトラーは,この法律は人権の侵害であるとして反対運動に立ち上がり,その撤廃に成功し,さらに国の内外に売春の禁止を訴えた。またM.C.C.ストープスは,産児制限の技術を開発し,それを普及し,女性労働者の地位向上を図った。

アメリカ合衆国の女性運動は,イギリスの女性運動と影響しあい,ここでも慈善事業,女性参政権運動に女性は情熱を傾けた。イギリスのように救貧法をもたず,貧民救済が公的事業とはみなされなかったアメリカ合衆国では,私的事業としての慈善事業に多くの女性が参加し,19世紀末には,J.アダムズなどによって,シカゴのハル・ハウスでセツルメント運動が開始された。また奴隷制廃止が重要課題であったこの国では,グリムケ姉妹L.C.モットなどが奴隷解放運動を推し進め,女性解放運動の基盤をつくった。高等教育への道はイギリスよりも大きく開かれ,1882年ころまでには,諸大学は女性を男性と同じ条件で入学させるようになった。大学教育を受けた女性の間で〈大学婦人協会〉が結成され,女性の地位向上のための努力が続けられた。

 売春禁止運動がイギリスから波及し,さらに男女の性関係を規制して家族生活を擁護するために,純潔運動,禁酒運動が女性参政権運動の指導者たちの支持も受けて進められた。だが,このような運動には反対もあり,大統領候補になったV.C.ウッドハルは恋愛の自由を説き,女性参政権運動に混乱が生じた。

 19世紀後半から,女性たちの間に各種のクラブがつくられ,世紀末にかけては〈全国女性クラブ連合〉が結成され,クラブの運動として女性労働者の地位向上が図られた。〈全国消費者連盟〉は,消費者の立場から被用者の労働条件に注目し,女性労働者の保護,児童労働の制限,最低賃金と最長労働時間の立法化に努力した。〈全国女性労働組合連盟〉は,女性労働者のストライキを支持し,経済的に援助を行った。

 このほか,A.J.ブルーマーは,女性のための活動しやすい服装(ブルーマーズ)を考案し,E.ゴールドマンは,無政府主義の立場からの解放を主張し,M.H.サンガーは,産児制限の普及に努力した。

フランスでは,大革命のときに,O.deグージュが〈女性と女市民の権利宣言〉(1791)を発表し,女性たちはパンを要求して行進をしたり,独自の革命運動の組織もつくった。だがその後に成立したナポレオン法典によって女性の地位は低くおさえられ,革命のときに撤廃された姦通罪は1810年に,離婚の禁止は16年に復活した。このためフランスの女性運動では,イギリス,アメリカ合衆国とは異なって女性参政権よりは家族,職業労働,教育の問題に重点がおかれた。30年代には,サン・シモン主義者,フーリエ主義者によって女性解放運動が開始され,F.トリスタンは〈労働者同盟〉の結成による男女労働者の解放をよびかけ,G.サンドは小説を発表して恋愛の自由を訴えた。48年の二月革命には,ニボワイエEugénie Niboyetによって新聞《女性の声La Voix des femmes》が発行され,こうした動きが核になり,離婚の自由,労働者の組織化,女性の解放が主張された。パリ・コミューンでは,女性は独自の組織をつくって活動し,女性の隷従状態からの解放を説いた教師C.L.ミシェルは,コミューンの闘争のために流刑に処せられた。70年以降は,参政権,労働権を要求する各種の組織が結成され,女性の権利を論じる会議が開かれた。

ドイツでも,女性運動の関心は,参政権よりは女性の生活,職業労働,教育に向けられた。1848年の三月革命を契機に,オットー・ペータースLuise Otto-Peters(1819-95)は新聞を発行して女性の労働権を訴え,65年にはシュミットAuguste Schmidt(1833-1902)とともに〈全ドイツ女性協会Allgemeine Deutch Frauenverein〉を発足させた。この会は,ドイツの有力な女性団体に成長し,女性の雇用機会の増大,職業教育,既婚女性の権利の保障を要求した。女性運動は社会主義者の間で重視され,ベーベルは女性運動と労働運動の結合を説き,社会主義女性によるインターナショナルが開催され,女性の解放と平和が主張された。第1次大戦後のワイマール体制のもとで,女性は参政権をはじめ法的平等を獲得し,社会的進出をしたが,ナチスの台頭によって,女性解放のための運動は弾圧された。

明治維新によって近代化の道を歩みはじめた日本は,先進諸国の水準に追いつくために女性の地位を向上させる必要があったと同時に,天皇制国家の基礎としての前近代的家族を維持するために女性を家庭に拘束しておかなければならなかった。こうした状況のなかで,女性運動は,前近代的要素とくに家族制度に対抗しつつ,また妥協しつつ,欧米の女性たちが提起した女性参政権,売春禁止,職業活動などの課題に取り組んだ。

 自由民権運動は,女性に自己の権利を意識させる契機をあたえた。女性たちも集会に出席し,岸田俊子,福田英子のようにそこで男女の平等を説く女性もあらわれた。その後1890年の〈集会及政社法〉で女性の政談集会,政治結社への参加は禁じられ,この法の撤廃は女性運動の重要課題となった。

 欧米に追いつくために教育に重点をおいた初期の明治政府は,1871年(明治4)に津田梅子ら5人の女性をアメリカ合衆国に留学させ,72年には学制を発布して男女平等の義務教育を実施し,74年には東京に女子師範学校(現,お茶の水女子大学)を設立した。だがやがて良妻賢母主義が主張され,家庭の守り手としての女子教育が重視されるようになり,それへの批判として,巌本善治は自由主義的教育をめざす明治女学校を設立した。また津田梅子は女子英学塾(現,津田塾大学)を,吉岡弥生は東京女医学校(現,東京女子医科大学)を創設した。女性は高等教育を受けることができるようになったが,男性と同等の大学に入学が認められるようになるのは,第2次大戦後であった。

 売春禁止の要求は,1869年の津田真道による公娼廃止の建議が端緒となり,マリア・ルース号事件を契機に政府もこの問題をとり上げたが,廃娼運動の担い手は,キリスト教徒であった。アメリカ合衆国の女性運動に刺激され,86年に矢島楫子は〈東京婦人矯風会〉を結成し,平和,純潔,禁酒を目標にかかげ,姦通は男女双方を処罪すべきことを主張し,売春に反対し,一夫一婦制の強化を求めてねばり強い運動を進めた。

 廃娼運動を支えた前近代的家族への批判,男女の人格的平等の思想は,恋愛の賛美,女性の自我の覚醒の主張へとつながっていく。与謝野晶子,平塚らいてう,伊藤野枝,神近市子らは,家族制度に抵抗して恋愛の自由を主張し,実践した。また1911年,平塚らいてうは雑誌《青鞜》を発刊し,女性の埋もれた才能の発見を訴え,自我の確立を説いた。このような状況のなかで,女性の問題は注目されるようになり,女性運動家たちの間では,母性保護論争など女性解放をめぐる諸問題が論じられた。20年,平塚らいてうは市川房枝,奥むめおらとともに〈新婦人協会〉を結成し,女性の政治活動を禁止した治安警察法第5条の改正,花柳病男性の結婚制限を要求した。社会主義,無政府主義の運動にも女性は参加し,菅野スガは大逆事件に加わり処刑され,無政府主義の立場から女性解放を主張した伊藤野枝は殺害され,マルクス主義を身につけた山川菊栄は,無産階級の女性の解放を主張した。

 女は家庭を守るものという社会通念と資本の過酷な搾取のもとで,職業労働は女性にとってきびしく,とくに紡績女工の労働条件は劣悪であった。だが女性は,明治以来,奉公人,工場労働者のほか,教師,産婆,看護婦,電話交換手,事務員,店員などへと職域を拡大していった。女性労働者の運動としては,1886年に,甲府の雨宮製糸工場の女工が日本最初のストライキを行い,1916年には〈友愛会婦人部〉が設置され,女性労働者の組織化が進められた。大正デモクラシーの高揚のなかで,21年には堺(のちの近藤)真柄など社会主義者が〈赤瀾会〉を結成し,第2回メーデーには,女性としてはじめて参加した。

 昭和のファシズムと第2次大戦は,女性運動をつぶしまた変質させていった。明治時代の1901年に誕生した〈愛国婦人会〉,昭和に入り,31年結成の〈大日本連合婦人会〉,32年結成の〈大日本国防婦人会(国防婦人会)〉に家庭女性は組織され,これらの3団体が中心になり,1942年には〈大日本婦人会〉が発足した。これには20歳以上の女性全体が組織され,戦時中の翼賛政治を支える力になった。従来の女性運動の指導者たちのなかにも,女性に国策を宣伝し,軍国主義の一翼を担った者も少なくなかった。

敗戦と戦後改革により,日本の女性は,先進国の女性が長い運動を通して手に入れた多くのものを獲得した。憲法に男女平等が規定され,女性参政権が実現し,古い家族制度が廃止され,男女同一賃金が法によって認められ,男女共学が実現し,大学の門は開かれた。このような戦後の民主化のなかで〈戦後対策婦人委員会〉(1945年8月25日結成。のち日本婦人有権者同盟)などの各種女性団体が組織され,〈主婦連合会〉(1948年結成,主婦連)は,物価引下げ運動を展開した。また平和運動,原水爆禁止運動にはたくさんの女性が参加し,〈母親大会〉(1955発足)はその声の集約となった。しかし,最大の組織である〈全国地域婦人団体連絡協議会〉(地婦連)が,戦時中の女性団体の行政癒着的性格を払拭しきれないで存在する一方で,1960年代から女性運動に対する政党による系列化が進み,社会党系の〈日本婦人会議〉,共産党系の〈新日本婦人の会〉,民社党系の〈民主婦人の会〉,公明党系の〈主婦同盟〉が結成され,〈働く婦人の中央集会〉(総評,日本婦人団体連合会などが中心となり,女性労働者の交流と学習のために1956年以降毎年開催)にも政党が影を落とすようになった。

1960年代後半に,アメリカ合衆国でウーマン・リブwomen's lib.(women's liberation)の運動が発生し,急速に世界各地に波及した。第2次大戦後の安定期に家庭に帰った女性が,その生活に満足できなかったこと,また高等教育を受ける女性が増大したにもかかわらず,彼女たちには能力を生かす機会が与えられなかったことなどが,黒人運動や学生運動における性差別に触発されて,新しい女性運動を生みだしたのである。フリーダンの《女らしさの神秘The Feminine Mystique》(1963,邦題《新しい女性の創造》)は,この運動の拡大に影響力をもった。ウーマン・リブは,女性を拘束している家族,男女の性別役割分業,つくられた〈女らしさ〉,それらの上に立つ政治・経済・社会・文化の総体を批判し,現実を直視し連帯を強めるための女性の意識高揚consciousness raisingを主張した。日本でも,1970年には〈ぐるうぷ闘う女〉主催でウーマン・リブの集会が開かれ,各地に拠点がつくられ,優生保護法(現,母体保護法)改悪阻止を主張し,1972年にはピル解禁を要求する〈中ピ連〉も生まれた。

 こうした運動の高揚を受けて,国連では1975年を〈国際婦人年〉としてメキシコ市で世界会議を開催,〈世界行動計画〉を発表した。日本でもこれを契機に,〈国際婦人年をきっかけに行動をおこす会〉など各地に女性運動の組織が結成された。1980年には〈国連婦人の10年〉中間年としてコペンハーゲンで世界会議が開かれ,1979年に国連総会で採択された〈女子差別撤廃条約〉(女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約)の署名式が行われ,日本もそれに署名した。80年代には,日本の女性運動は,同条約批准のための国内法の整備,特に実効ある〈男女雇用機会均等法〉の成立に向けられ,同条約は1985年に批准された。1985年には〈国連婦人の10年〉の世界会議がナイロビで開催され,2000年に向けての〈女性の地位向上のためのナイロビ将来戦略〉が採択された。1995年には第4回世界女性会議が北京で開催され,女性の実力の養成(エンパワーメント),性と生殖に関する健康・権利(リプロダクティブ・ヘルス/ライツ)を盛り込んだ〈行動綱領〉が採択された。女性の世界会議は,回を重ねるごとに参加国が増加した反面,政府間会議の比重が大きくなり,先進国と途上国,宗教団体の意見の調整が困難になってきている。この意味で,非政府組織(NGO)の活動が期待されている。

 近年の日本国内の女性運動としては,およそ三つの方向がみられる。第1は人権に関する問題で,それには女性に対する暴力反対,セクシュアル・ハラスメントの告発,戦時中の慰安婦問題が含まれる。第2は民法改正等に関連し,夫婦別姓,離婚事由として破綻主義の導入,婚外子差別の撤廃の要求である。第3は労働に関する問題で,〈男女雇用機会均等法〉の改正,アファーマティブ・アクションの導入,無償労働(アンペイド・ワーク)の統計化が検討課題となっている。
女子教育 →女性労働 →女性解放
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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