日本大百科全書(ニッポニカ) 「カロリン諸島」の意味・わかりやすい解説
カロリン諸島
かろりんしょとう
Caroline Islands
太平洋西部、ミクロネシアにある島々。赤道のすぐ北側を、西端のパラオ諸島から始まって、コスラエ島(旧名クサイエKusaie)を東限とする東西3000キロメートルに散在する963の島々からなる。陸地面積合計2150平方キロメートル。行政的には、ミクロネシア連邦の西側3分の2(ヤップ、チューク(トラック)、ポーンペイ(ポナペ)、コスラエの4行政区)と、パラオ共和国(ベラウ)が含まれる。人口はパラオ共和国1万8000(2001推計)、他の4行政区14万7200(2001推計)を合計すると16万5200。海面すれすれのサンゴ礁の島から、標高780メートルの火山島まで各種の島々があり、一概にはいえないが、全域にわたってコプラ、サトウキビの産出があるほか、タロイモの栽培も一般的である。またポナペ島などでは灌漑(かんがい)による米作も行われている。なお、この海域は好漁場が多く、日本領有時代に得たかつお節製造の技術もある。またリン鉱石やボーキサイトを産出する島もある。先住民はミクロネシア人(俗称カナカ人)であるが、現在では地区ごとにパラオ人(パラウアン)、トラック人(トラキーズ)などとよび、また東部の島々、たとえばポーンペイ地区に属するモキールMokil、カピンガマランギKapingamarangi、ヌクオロNukuoroなどの島には純然たるポリネシア系の住民がみられる。
16世紀初頭から、スペイン船がメキシコ―フィリピン間の往復の途上でいくつかの島々を「発見」して立ち寄っていたが、1686年、ヤップ島の高峰に当時のスペイン国王カルロス2世の名をとってラ・カロリナLa Carolinaと命名したものが後の諸島名となった。1899年ドイツがスペインから購入し、第一次世界大戦後の1914年には国際連盟から委任されて日本委任統治領となり、その時代が30年に及んだが、第二次世界大戦後アメリカの信託統治領となった。1994年パラオ共和国の独立をもって信託統治は終了した。
ヤップ、チューク、ポナペには国際空港があり、コロール(パラオ)とコスラエにある国内空港を含めてミクロネシア航空が就航しているが、やはり海上交通が中心である。コロール、タカティクTakatik(ポナペ)、クサイエ(コスラエ)、コロニアColonia(ヤップ)、モエンMoen(チューク)などの港は埠頭(ふとう)設備も整っている。
[大島襄二]
住民
住民はミクロネシア人(俗称カナカ人)とよばれているが、人種的にはモンゴロイドに属し、褐色の皮膚に黒色の波状毛をもつ。東カロリンの人々は長頭で顔の幅が狭く、中身長であるが、西カロリンの人々は中頭で顔の幅が広く、縮毛、さらに東カロリンより多少身長が高い。しかし、ヨーロッパ人、日本人との混血が進んでいる。
カロリン諸島の文化は2系統に区別される。一つは、紀元前2000年ごろ、フィリピン方面から西縁のパラオ、ヤップ、マリアナ諸島に移入してきた文化である。いま一つは、紀元前1300年前後にメラネシアのニュー・ヘブリデス諸島の北部から北上してきた文化が、ギルバートおよびマーシャル諸島を経て、東および中央カロリン諸島に至った文化(核ミクロネシア文化)である。この二つの文化の流れは何回もの小さな波となって訪れ、カロリン諸島住民の伝統文化の形成に影響を与えた。
ポリネシア文化との共通点としては、ヤムイモ、タロイモなどの根茎作物、バナナ、パンノキ、ココヤシなどの果樹、イヌ、ニワトリなどの家畜、アウトリガー・カヌー、地炉による蒸し焼き料理ウムなどがあげられる。
母系制社会で、さまざまな段階の首長制階層秩序が発達し、優れた航海術を発展させている。
[牛島 巖]