出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ルーマニア国王(在位1881~1914)。南ドイツのホーエンツォレルン・ジグマリンゲン公家に生まれ、ルーマニアにくるまではカルル・アイテル・フリードリヒとよばれた。ドレスデンとボンで教育を受け、プロイセン軍の士官になった。ルーマニア自治公国の初代大公クーザが1866年に失脚すると、その後任として迎えられ、即位してカロルと名のった(在位1866~81)。ベルギーに倣った憲法を公布、保守党と自由党を巧みに操作して支配を続けた。81年に独立王国を宣言、国王の称号を得た。83年オーストリア・ハンガリーおよびドイツと秘密同盟条約を結んだが、国民は親仏的で、政府が第一次世界大戦に中立を宣言したため、彼は失意のうちに病死した。
[木戸 蓊]
ルーマニア国王(在位1930~40)。カロル1世の死後、甥(おい)のフェルディナンド1世が後を継いだが、カロル2世はその長男。ドイツで士官の教育を受け、帰国して皇太子となったが、二度目の結婚ののち、悪評のある婦人との醜聞が問題になり、王位継承権を放棄して西欧へ亡命した。1930年に帰国し、息子のミハイ1世(在位1927~30、1940~47)を退位させて王位につく。ムッソリーニを崇拝し、ファシズム団体の鉄衛団を一時支援したが、38年に全政党を解散させて個人独裁を敷いた。40年に自らが接近した枢軸諸国とソ連に領土の3分の1を奪われ、同年9月に王位をミハイに譲って亡命、53年ポルトガルで客死した。
[木戸 蓊]
フランス在住の旧共産圏問題ジャーナリスト。ポーランドに生まれたが、1939年独ソによるポーランド分割で自動的に旧ソ連市民となり、ロストフ大学を卒業。1946年ポーランド国籍に復帰し、1950年パリに移住して『ヌーベル・オプセルバトゥール』誌や『ル・モンド』紙に寄稿し、共産圏の動向分析に健筆を振るった。『フルシチョフと西欧』『毛沢東(もうたくとう)の中国』『カストロの道』など多くの著作がある。
[木村明生]
…フランスのノエル《ヨセフは良き嫁をめとりぬ》に見られる日常的庶民的な発想や,ドイツのクリスマスのリート《バラが咲いた》(日本基督教団賛美歌96番《エサイの根より》)に見られる,イエスの降誕を冬の真夜中に花開く一輪のバラにたとえたイメージの鮮烈さなどを,その例として挙げることができよう。 キャロルcarolの語源は,中世フランスの輪舞カロルcaroleであるとされている。14~15世紀イギリスのキャロルには,輪舞の際の歌唱形式にふさわしく,折返し句が1句ごとに反復される形がよく見られ,ラテン語と俗語(方言)が入りまじっているのが特徴である。…
※「カロル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加