出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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1644~97(在位1671~97)
ジュンガル部の首長。ボショクト・ハーンと号した。活仏(かつぶつ)としてチベットにあったが,1671年に兄センゲが一族に殺されると,ダライラマの許しを得て帰国,77年ホシュート部の覇権を奪って全オイラトの指導者となった。東トルキスタンを従えて貢納させる一方,ハルハ部の内紛に介入,1688年に兵を率いてハルハに侵入した。しかし本国を甥のツェワンアラブタンに奪われ,96年には清軍とジューン・モドで戦って敗れ,翌年自殺した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
アルタイ山脈西方に拠(よ)っていたモンゴル系民族オイラートのジュンガル部長。ダライ・ラマの支持を得てチベット仏教(ラマ教)・ジュンガル世界国家の建設を夢みた。1677年、オイラート全部の首長であった岳父を殺してハンと称し、82年にはタリム盆地の回部(かいぶ)をも従えた。ついで88年にはアルタイを越えてモンゴルに侵入し、勝利を得たが、90年に赤峰付近で清(しん)軍に敗れ、96年には親征した康煕(こうき)帝の軍隊にチャモド(昭莫多)で大敗し、翌年アルタイ山中で自殺した。
[羽田 明]
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…いっぽう彼は国内体制の整備にも努めたが,なかでも重要なのは,〈大法典〉(1640)の制定と黄帽派ラマ教の国教化である。バートル・ホンタイジの子センゲ(在位1653‐71)を経て,センゲの弟ガルダン(在位1671‐97)にいたり,ホシュート部族の勢力を一掃して名実ともにジュンガル王国の独裁者となった。このため78年ダライ・ラマ5世よりボショクト・ハンの称号を授けられた。…
※「ガルダン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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