キャンベル・バナマン(読み)きゃんべるばなまん(英語表記)Sir Henry Campbell-Bannerman

日本大百科全書(ニッポニカ) 「キャンベル・バナマン」の意味・わかりやすい解説

キャンベル・バナマン
きゃんべるばなまん
Sir Henry Campbell-Bannerman
(1836―1908)

イギリスの政治家スコットランドグラスゴーに生まれる。グラスゴー大学、ケンブリッジ大学で学んだのち、1868年自由党下院議員に選出された。グラッドストンのアイルランドへの自治供与政策を強く支持し、1886年に陸相として内閣入りした。1892~1895年再度陸相を務め、1899年には野党となっていた自由党の下院指導者に就任南アフリカ戦争ブーア戦争)中は、ブーア人への強硬策を批判した。1905年12月、バルフォア内閣辞職のあと、首相となり自由党内閣を組織し、1906年の選挙で大勝、1908年病気のため辞任するまでに、トランスバールでの責任政府樹立、労働争議法、労働者補償法の制定などを行った。

[木畑洋一]

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改訂新版 世界大百科事典 「キャンベル・バナマン」の意味・わかりやすい解説

キャンベル・バナマン
Henry Campbell-Bannerman
生没年:1836-1908

イギリスの政治家。キャメル・バナマンともいう。実業家J.キャンベル次男としてグラスゴーに生まれる。1872年に母方紋章を継承し,以後バナマン姓を加えた。グラスゴー大学,次いでケンブリッジ大学に学んで修士号を得た後,68年に自由党の代議士となり,3次にわたるグラッドストン内閣においてアイルランド事務長官(1884-85),陸相(1886,92-95)を歴任,アイルランド自治法案を支持した。グラッドストンの政界引退(1895)後は,彼の衣鉢を継いであくまでも自由派本来の立場をとり,ローズベリー,アスキス等の党内〈自由帝国主義〉派と対立するいっぽう,統一党のJ.チェンバレンの南アフリカ政策を攻撃し,ボーア戦争を批判した。99年,自由党党首,次いで首相(1905-08)となり,学校給食法(1906),工場・作業所法(1907),婦人雇用法(1907)などの社会立法を成立させ,社会保障政策を推進した。心臓病で没。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「キャンベル・バナマン」の意味・わかりやすい解説

キャンベル=バナマン
Campbell-Bannerman, Sir Henry

[生]1836.9.7. グラスゴー
[没]1908.4.22. ロンドン
イギリスの政治家。ジェームズ・キャンベルの息子で,母方の叔父の財産を継ぎ Bannermanの名を加えた。 1868年スコットランドの選挙区から自由党所属の進歩派下院議員として選出された。第2次 W.グラッドストン内閣のもとでアイルランド相 (1884~85) として頭角を現し,さらに第3,4次グラッドストン内閣およびローズベリー内閣の陸軍相 (86,92~95) をつとめた。 95年ナイト爵を授かる。 99年 W.ハーコート辞任のあとをうけて自由党党首になる。党内の一部にあった戦争支持を押えて南アフリカ戦争に批判的な姿勢をとる。 1903年 J.チェンバレンの関税改革政策に反対,自由貿易維持で党論を統一。 05年バルフォア保守党内閣が総辞職すると,首相として自由党内閣を組閣した。在任中,種々の社会立法を行い,トランスバールおよびオレンジ自由国に自治権を与えた。 08年病気のため辞職,2週間後に死去。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「キャンベル・バナマン」の解説

キャンベル・バナマン
Henry Campbell-Bannerman

1836~1908

イギリスの政治家。1868年以来自由党所属の下院議員。84~85年アイルランド担当相,86年,92~95年陸相,99年自由党党首となり,首相(在任1905~08)。種々の社会立法を成立させ,07年英露協商を結び,また南アフリカ戦争後トランスヴァールおよびオレンジに自治を認めた。08年病気のため辞職。

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百科事典マイペディア 「キャンベル・バナマン」の意味・わかりやすい解説

キャンベル・バナマン

英国の政治家。キャメル・バナマンとも。1868年以来下院議員(自由党)となり,アイルランド相,陸相を歴任。1899年自由党党首となり,J.チェンバレンの帝国主義政策に反対。のち首相(1905年―1908年)となり,種々の社会立法を成立させ,ボーア戦争後のトランスバール,オレンジ自由国に自治を認めた。

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