ロシアの革命家、教育学者。レーニン夫人。ペテルブルグで軍人の家庭に生まれる。1890年からマルクス主義学生サークルに参加、翌1891年から労働者夜間日曜学校で教え、やがて労働者階級解放闘争同盟の組織者の一人として活動し、その間にレーニンと知り合う。1898年にレーニンの流刑地、シベリアのシュシェンスコエ村に行き、結婚。1901年、レーニンの刑期終了後に彼とともにヨーロッパに亡命、1905年から1907年にかけての第一次ロシア革命期に国内で活動したのを除いて、1917年まで亡命地にあってレーニンのよき協力者であり、その活動を支えた。1915年に「国民教育と民主主義」を完成(1917年出版)するなど、マルクス主義教育理論家としても活躍した。1917年4月にレーニンとともに革命ロシアに帰り、十月革命後は教育人民委員部の重要メンバーとして、ルナチャルスキーやポクロフスキーらとともにソビエト教育政策の基礎を築いた。とくに、生産労働との結合を通して人間の全面的発達を目ざす総合技術教育を新しい学校教育のあり方として位置づけ、また子供の集団主義的育成を目ざすピオネール組織の運動を指導するなど、社会主義建設と結び付いた教育の理論化と実践に大きな足跡を残した。レーニンが発作に倒れたのちは彼の看護婦であるとともに最良の理解者として夫を助けた。彼の晩年から死後にかけて、実力を握りつつあったスターリンと対立した時期もあった。著作に『教育論集』全10巻、『レーニンの思い出』などがある。
[原 暉之]
『矢川徳光他訳『クルプスカヤ選集』全11巻(1976~1978・明治図書出版)』
ソ連の教育学者,ピオネール運動の組織者。レーニンの妻で,ロシア革命前から共産党員として活躍。ペテルブルグで生まれ,女学校を卒業後,労働者の日曜学校で教育活動に従事し,1890年代の初めから革命運動に参加した。96年に逮捕され,レーニンとともにシベリアで流刑に服したが(1898年結婚),その後,海外亡命生活中にヨーロッパの古典的教育思想を研究し,《国民教育と民主主義》(1915)を書きあげた。この本は,マルクス主義の観点で書かれた最初の教育学書ともいわれ,労働と教育との結合を基礎とする人間の全面発達の可能性とその歴史的必然性とを追求している。十月革命後は,教育人民委員部(文部省)の参与会委員や次官となって,ソビエトの社会主義教育建設の最高指導者の一人となり,国民教育のあらゆる分野に大きな影響を与えた。彼女がとりわけ重視したのは,ピオネール運動による子どもの課外・校外活動の組織化,集団主義的人間の育成とポリテクニズム(総合技術教育)の実現である。後者は,近代の民主主義教育思想をうけついでマルクスとエンゲルスが定式化したものであるが,その原理をソビエトの現実の学校で実現すべく苦心したのである。第2次大戦後,日本でも彼女の著作が邦訳され(《クルプスカヤ選集》全11巻がある),教師の間などで広く読まれている。また《レーニンの思い出》(1928)はレーニンに関する重要な資料である。
執筆者:柴田 義松
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…この思想の萌芽は,〈農夫のように働き哲学者のように思索する〉人間を理想としたJ.J.ルソーの《エミール》(1762)や,工場労働と教育の結合を試みたR.オーエンなどにもみられたが,マルクスは,機械制大工業の発展の本性が人間の全面的発達を不可避とするととらえ,今後の教育は知育,徳育,体育,総合技術教育で構成されねばならないとした。この総合技術教育の思想は,レーニン,N.K.クループスカヤによって詳細に研究され,ソ連をはじめとする社会主義国で実際化された。現代の総合技術教育は,社会主義生産の科学的原理を学ばせ,労働用具や機械を扱う習慣を習得させ,現代の技術と技術学に通暁する能力を形成させることを目的とするとされてきた。…
※「クループスカヤ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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