改訂新版 世界大百科事典 「チェコ兄弟団」の意味・わかりやすい解説
チェコ兄弟団 (チェコきょうだいだん)
Jednota bratrská[チエコ]
15世紀半ばにボヘミアのフス派運動の分裂から生まれた平信徒の団体。ボヘミア兄弟団Böhmische Brüderともよばれる。のちのモラビア兄弟団の源流。南ボヘミアの小貴族ヘルチツキーの唱える非暴力・自由・平等の教えをうけて,1457年に東ボヘミアのクンバルトKunvaldで創設された。彼らは宣誓,兵役,公職への就任を拒否し,商業を嫌い,農耕や手工業による質素な生活を求めた。厳格な信仰規律のゆえに,国王やカトリック教会からしばしば迫害を受けたが,ボヘミア,モラビアを中心にその勢力を広めていった。当初信徒には下層農民や手工業職人が多かったが,時とともにその徹底した倫理主義は緩められ,多数の都市民や貴族も加わるようになった。1490年ころにはプラハの神学者ルーカス(ルカーシュ)Lukáš Pražský(1458ころ-1528)の指導で独自の教会がつくられ,16世紀初めには信徒数10万,各地に200の教会をもつ組織に拡大された。
1575年には神聖ローマ皇帝兼ボヘミア国王マクシミリアン2世(在位1564-76)から礼拝の自由を得,さらに1609年にはルドルフ2世(在位1576-1612)から完全な信教の自由を与えられた。だが,徹底したカトリック化をおし進めるフェルディナント2世(在位1619-37)の治世に勃発した1620年のプラハ近郊のビーラー・ホラの戦で,反カトリックの貴族軍が国王軍に破れたのちは,他のプロテスタント派とともに決定的な打撃を受け,信徒も数多く国外に追放された。兄弟団最後の監督職で教育学者コメニウスも当時亡命した一人であった。国内では多くの信徒がカトリックに改宗するなかで,兄弟団の教えはひそかに守られ続けた。だがカトリック化がことにモラビア地方で激しく展開されると,兄弟団の子孫の多くは,18世紀初めには主としてザクセン地方に移住していった。彼らはザクセンで敬虔派貴族ツィンツェンドルフ伯の保護を受け,モラビア兄弟団Mährische Brüderの名のもとに,彼の所有地ヘルンフートHerrnhutに1722年モラビア教会を建て,やがて宣教活動をイギリス,アメリカその他にまで広めていった。
チェコ兄弟団はボヘミア,モラビアの教育改革に力を入れ,チェコの民族文芸に大きな足跡を残した。聖書のチェコ語訳の完成(《クラリツェ聖書》),ブラホスラフの《チェコ語文法》,コメニウスの教育学の業績などがあげられる。
執筆者:稲野 強
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報