日本大百科全書(ニッポニカ) 「スペイン演劇」の意味・わかりやすい解説
スペイン演劇
すぺいんえんげき
スペイン人は人生を一編のドラマと考えるために、闘牛、宗教的行事、政治集会においても劇的要素が濃厚にみられる。したがって演劇は、スペイン文化においてつねに重要な役割を果たしてきたといえよう。
[野々山真輝帆]
歴史
スペイン語のもっとも古い演劇は、中世の宗教劇であるが、同時に庶民的な笑劇(ファルス)なども存在した。今日残っている最古の作品は、13世紀初めの『東方の三博士の聖餐(せいさん)劇』である。およそ3世紀にわたる空白の時代を経て16世紀の初め、中世演劇とルネサンスの影響のもとに、スペイン演劇の創始者といわれるエンシーナJuan del Encina(1468?―1529?)が現れ、牧歌劇などを書いた。ついでトーレス・ナアーロがアリストテレスの詩学に学んで、劇作術を確立し、自作品のなかで実践した。同じころジル・ビセンテGil Vicente(1465―1537?)がポルトガル演劇の基礎を築き、スペインにも影響を与えた。
16世紀中葉には、イタリア演劇の影響を受けたロペ・デ・ルエダが、庶民の日常的なできごとをテーマに散文による一幕物の寸劇「パソ」pasoを創造し、演劇を庶民に近づけた。17世紀のミゲル・デ・セルバンテスの幕間劇「エントレメス」entremés、18世紀の韻文の笑劇「サイネーテ」saineteは、この流れをくんだものである。
16世紀後半から17世紀にかけて、スペインはエリザベス朝のイギリス演劇と並ぶ、「黄金世紀」シグロ・デ・オロsiglo de oroといわれる演劇の最盛期を迎えた。この時代の中心的劇作家はロペ・デ・ベガLope de Vega(1562―1635)で、悲劇・喜劇のルールを無視し、あらゆる階層の心をとらえる一大国民演劇「コメディア」comediaを創造した。そのおもなテーマは名誉であり、おもなジャンルは、貴族が恋する女性を追いかけ、さまざまな障害を乗り越えて結ばれるという筋書きの「合羽(かっぱ)と太刀(たち)の劇」コメディア・デ・カパ・イ・エスパダcomedia de capa y espadaである。ほかにも彼は国民史劇や聖餐神秘劇など膨大な数の作品を書いている。
このころ、マドリードの市内や郊外に劇場が建設されたこともスペイン演劇の発展に寄与した。コラールcorralとよばれるこの常設の劇場は、中庭(パティオ)に面した半円形の舞台が中心で、前面に男性用の椅子(いす)、回廊(ガレリア)に女性用の椅子が並び、後方にうるさ型の立見席があり、左右の建物の窓の奥に貴族の観覧席が設置された。舞台装置は簡略化され、俳優が「この宮殿で」とか「森の中で」とか、台詞(せりふ)のなかで場所を明らかにした。一般に上演時間は3時間で、夏は午後3時、冬は午後2時に始まった。
黄金世紀を飾ったおもな劇作家は、ロペ・デ・ベガのほかに、『セビーリャの色事師と石の招客』(1630)でドン・ファンの原型を創造したティルソ・デ・モリーナ、人物の性格と時代風俗に焦点をあて、異色な性格劇を創造したルイス・デ・アラルコン、意志の自由などの哲学的・神学的テーマに取り組み、『人生は夢』(1635)、『サラメアの村長』(1636)などを書いたカルデロン・デ・ラ・バルカらである。黄金世紀の舞台における興味深い特色は母親の不在で、かわって娘や妻の貞操を守る父親や兄が主要な役割を果たしている。
18世紀は、フェルナンデス・デ・モラティンに代表されるフランス古典劇の模倣の時代で、注目すべき劇作家を輩出していないが、クルスの「サイネーテ」が人気をよんだ。
19世紀はロマンチシズムの時代で、『ドン・ファン・テノリオ』(1844)の作者ソリーリャと、『ドン・アルバロまたは運命の力』(1835)の作者リーバス公爵Duque de Rivas(1791―1865)が活躍した。後半には、タマヨ・イ・バウス、エチェガライ、また20世紀にかけて、ベナベンテ、アルバレス・キンテーロ兄弟が、それぞれ巧みな作品を発表し、「よき時代(ベル・エポック)」の劇壇をにぎわせた。
[野々山真輝帆]
現代
20世紀初頭からスペイン内戦まで
20世紀に入って、エチェガライとベナベンテがノーベル文学賞を受けたが、現代演劇に深い影響を与えたのは、ウナムーノ、バーリェ・インクランRamón María del Valle-Inclán(1866―1936)、ガルシア・ロルカである。ウナムーノはいっさいの装飾を排し、むき出しの自我の対決を描き、バーリェ・インクランは、伝統的価値観を破壊するために、凹面鏡のデフォルメされた映像にヒントを得た「エスペルペント(でたらめ劇)」esperpentoを創造した。またガルシア・ロルカは、民族的伝統を近代的感覚によって再生させ、『血の婚礼』(1933)、『イエルマ』(1934)、『ベルナルダ・アルバの家』(1936)の三大民族悲劇によって世界的に評価されている。しかし、スペイン内戦(1936~1939)においてロルカは銃殺され、アルベルティ、グラウ、カソーナらの作家は南米に亡命した。
[野々山真輝帆]
内戦以後1970年代まで
内戦後のスペイン演劇界は、社会派のブエロ・バリェッホの『ある階段の物語』(1949)によって再開された。安アパートに住む人々の生存競争の過程で挫折(ざせつ)する夢を追求し、内戦の傷跡も生々しい観客の心を打った。さらに、サストレが、閉ざされた家の中で起こる殺人事件をめぐって責任の所在を問う実存主義的政治劇『死に向かう小隊』(1953)を発表した。その後も2人は多数の作品を発表し、内戦後のスペイン演劇の基礎を築いた。
1960年代から1970年代にかけて、ブエロ・バリェッホやサストレのリアリズム劇とは異なる「新演劇」nuevo teatroといわれる一種の前衛劇が生まれた。その代表的劇作家はルイバル、ニエバFrancisco Nieva(1924―2016)、マティーリャJosé Luis Matilla(1939― )らで、彼らは一様に心理描写を排し、日常性から離脱し、幻想、寓話(ぐうわ)、シュルレアリスム的な要素を多く取り入れた。社会不正、搾取、階級闘争、本能や感情のゆがみなど、その扱うテーマは国境を越え普遍的な現代の問題であり、彼らのなかにガルシア・ロルカやバーリェ・インクランの伝統はみごとに生きている。
マドリードにはマリア・ゲレロ劇場、国立演劇センターの二つの国立劇場がある。民主化されてからは、いかなる演劇もここで上演することが可能となったが、民衆は前衛劇を好まないため、メロドラマが多く上演されている。
[野々山真輝帆]
1980年代以降
1980年代以後のスペイン現代劇の特色は、リアリズムの刷新、フィクションと作者の私生活・私的感情の融合、社会的環境の描写などであろう。さらに、演出家が観客動員を目ざして、台本からかけ離れた技法により、舞台をよりドラマチックなものにしようとする新しい現象もみられた。俳優たちが、オリンピックの開会式やセビーリャ万博などに自己表現の場をみいだしたこともこの現象とかかわりがある。文学とショーの合体が随所にみられるようになった。劇作家たちは、連続テレビドラマも手がけるようになり、テレビの視聴率において、テレビドラマはサッカーと競合するようになった。ベネ・イ・ジョルネJosep Maria Benet i Jornet(1940―2020)、セルジ・ベルベルSergi Belbel(1963― )、アントニオ・オネッティAntonio Onetti(1962― )は劇作家であると同時に、シナリオ・ライターとして、商業的成功を収めた。
有名な前衛派の劇団で、1970年代は軍隊の諷刺(ふうし)によって政府に迫害され投獄されるメンバーも出た。その一方で、パントマイム劇団エルス・ジョグラールスEls Joglarsによる性急な近代化のパロディ『われわれはもうヨーロッパ人』はテレビの観衆を魅了した。
バルセロナの劇団フォーカスは1999年以来、演劇の高い質を保ちながら商業的にも成功しようと全力を尽くし、1998年から1999年にかけて150万の観客数の増員を獲得した。マドリードでも俳優のラファエル・アルバレスRafael Alvarezを中心に同様の動きがみられた。年間約1200万人いる観客の40%はマドリード、バルセロナによって独占されているが、バルセロナではマドリードの約2倍の数の芝居が上演されている。
新しい劇作家の登場を容易にしたのは、1985年、青少年協会が設立した30歳以下の劇作家を対象にしたブラドミン侯爵賞(作家バーリェ・インクランの作品の人物に由来)である。これによってカタルーニャの劇作家セルジ・ベルベルなどは有名になった。
1990年代、社会労働党は文化省によって積極的に演劇界に経済的援助を行った。国立ドラマセンターのリーダーとして、国際的に有名な演出家ルイス・パスクワルLluís Pasqual(1951― )を起用し、1989年から1996年にかけてスペイン演劇界の先頭に立たせた。しかし政府の関与によって、文学的価値の高い小劇団が隅に追いやられたことに対しての批判があった。音楽やビデオによって幻想を高め、観客に対する催眠術的効果をねらったテヘデラス・フェルドマンなどの演出は一部で批判されたが、新しい要素を舞台に持ち込み脚光をあびた。一方、1960年代に登場した前衛派の劇団は1990年代以降も地方で存続した。なかでもセビーリャのラ・クワドラLa Cuadraはフラメンコを導入し、ギリシア神話をアンダルシア的に解釈した作品でマドリードで大成功した。また、フェミニズムを売りものにした、ルルデス・オルティスLourdes Ortiz(1943― )、マリア・マヌエラ・レイナMaría Manuela Reina、パローマ・ペドレロPaloma Pedrero(1957― )など女性劇作家たちの出現も見逃せない。
1980年代は舞台を意識した傾向が強く、観客の要望は「メッセージは不要、ドラマチックな芝居を」であったが、1990年代に入り流れが変わった。アントニオ・アラモAntonio Álamo(1964― )は権力と利害のシニカルな偽善性をついた『病人』(1997)で、スターリン、チャーチル、ヒトラーの会合を描き、オネッティは『酔っぱらいたち』(1988)で原爆の責任者である科学者たちの会合を描いて演劇をイデオロギー的メッセージの場とした。演劇界の主役は、演出家や劇団から劇作家に移り、演劇はふたたび小説に近づいた。しかし、舞台効果の絶えざる革新への努力は続いた。たとえば、ボクサーのアイデンティティをめぐるロドリーゴ・ガルシアRodrigo Garcia(1964― )の芝居『プロメテオ』(1996)では4人の声によってリリカル(叙情的)な詩を朗唱する技法を用いて成功し注目をあびた。
1980年代終りから1990年代にかけて、ポスト・モダニズムのヨーロッパ諸国の演劇のテーマと同様のものがスペインの演劇でもとりあげられるようになった。大都会の疎外された階層に属する若者たちの日常的問題、麻薬、暴力、性などである。短いダイアローグ(対話)、すばやい場面の入れ替え、大都会特有の熱っぽいダイナミックな会話。そこにはイデオロギー的政治批判が潜むが、重要なのはそれが審美的創造のモチーフになっている点であろう。この流れのなかで、エルネスト・カバリェロErnesto Caballero(1957― )やアントニオ・オネッティは従来のリアリズムを現代風にアレンジし、新しい領域を切り開いた。
演出家、舞台装置家として活躍したフランシスコ・ニエバも舞台から劇作に移り、想像力を駆使した不条理劇『熱い人々のダンス』(1990)で1992年国民演劇賞、アストゥリアス皇太子賞を受けた。彼は表現の自由を重視し、演出家、俳優に自由なコメントを導入させるオープン・シアターを試みた。
フランコ時代、演劇界に新風を吹き込んだブエロ・バリェッホの『施設(ラ・フンダシオン)』は1998年にもっとも注目をあびた作品である。サストレは『すばらしい酒場』(1985)、『エマヌエル・カントの最後の日々』(1990)を発表して演劇界から引退し、バスクで政治的に挑戦的なメッセージを発信し続けている。フェルミン・カバルFermín Cabal(1948― )は出版界で成功し、麻薬をテーマにした『悪魔の馬』(1990)で出発し、1992年『いたずら』では社会労働党の政治的腐敗を描いた。エルネスト・カバリェロは『見られている間』(1995)で社会的暗黒ゾーンを描き、民衆、とくに若者との直接対話を試みた。
21世紀に入ってスペインの観客は「エモーショナルでヒューマンな劇」を求めるものとみられるが、作家たちは1980年代、1990年代の傾向の統合を目ざすであろう。開発されてきた技術面での多様性は、作家にさまざまな可能性と自信を与え、スペイン演劇界の未来は明るい。
[野々山真輝帆]
現代ラテンアメリカ演劇
発祥
スペイン語圏のラテン・アメリカ諸国の現代演劇は、アルゼンチンのブエノス・アイレスを舞台に、エチェガライを模倣した古くさいロマンチックな作品に始まった。1930年代に入ると、中心はメキシコに移り社会問題を提起したウシグリRodolfo Usigli(1905―1979)やゴロスティサJosé Gorostiza(1901―1973)が活躍した。1940年代には、同じメキシコで前衛的な実験劇が生まれ、カルバリードやソロルサーノCarlos Solórzano(1922―2011)がそのリーダーとなった。その後、各国でブレヒト、ベケット、オズボーンなどの影響を受けた劇作家が誕生した。なかでも『侵入者』(1977)の作者、チリのイーゴン・ウオルフEgon Wolff(1926―2016)、『欠けた太陽』(1958)の作者、プエルトリコのレネ・マルケスRené Marqués(1919―1979)は、政治社会的背景の優れた心理劇を書いている。
[野々山真輝帆]
特色と展開
現代ラテンアメリカ演劇の特色は、社会的・政治的変革に対し責任を負う姿勢であろう。北アメリカ・ヨーロッパの演劇とは、この点で異なっており、作家たちは一様に戦闘的スタンスをもっている。
1980年ブラジルの雑誌『テアトロ』は、ラテンアメリカ現代劇の特集をしたが、このなかでブラジルの劇作家アウグスト・ボアルAugusto Boal(1931―2009)と、コロンビアの劇作家エンリケ・ブエナベントゥーラEnrique Buenaventura(1925―2003)は、ブレヒトの路線に従うことを明らかにした。またブエナベントゥーラは、自分たちの使命は、社会を変えるため、国の基本的問題に観衆の眼(め)を開かせることだと述べている。彼らの標的は、広範な中産階級を味方につけることである。
ボアルが率いるサン・パウロの劇団アレーナはブラジルでもっとも重要なグループで、1971年にボアルが投獄されるまでブレヒトの演劇紹介を続けた。その後、ボアルはアルゼンチン、ペルー、ポルトガル、フランスと亡命の旅を続けながら、新聞劇場、不可視劇場、裁判劇場などの新たな実験を試みた。彼はブレヒトの演劇論とブラジルの教育者パウロ・フレイレPouro Freire(1921―1997)の教育論を組み合せ、アリストテレス以来の古典的演劇論を拒否した。軍事政権が失脚すると、ボアルはブラジルに移り、リオ・デ・ジャネイロとサン・パウロでワークショップを開いた。
1970年代から1980年代にかけてラテンアメリカの劇作家たちは、それぞれの国の政府によって激しく迫害された。たとえば、オープン・シアターなどの新しい実験を始めたばかりのブエノス・アイレスのピカデロ劇場は1981年に閉鎖された。ラテンアメリカの政治家たちは、大衆の政治意識を高める演劇の役割に注目し、その効果を憂慮したため、ラテンアメリカにおける検閲は一般に厳しかった。この手法はスペインやポルトガルの独裁者にならったものである。ブエノス・アイレス、サンティアゴ、モンテビデオ、リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロなどの主要な劇場は、時の権力者によって何度も閉鎖された。
一方、アブサード・シアター(不条理劇)の手法を用いるラテンアメリカの作家たちは、北アメリカ・ヨーロッパの同業者とは異なり、暴力をテーマにした劇作にこぞって挑戦した。フランスの残酷劇は暴力劇に変容し、観客に強く訴えるため、暴力のテーマは文語表現、あるいは肉体的暴力として表現された。残酷劇とは、フランスの俳優・演出家アントニン・アルトーが創造したもので、台詞(せりふ)よりジェスチュアに重きを置き、社会の危機を生む条件を観客にぶつけ、考えることを促す。
コロンビアのナバッハス・コルテスNavajas Cortesによる『死者のあがき』(1976)は、怒り狂った農民の暴動から逃れるために妻の助けを借りて死んだふりをする地主が、自らかけた罠(わな)にかかり生きたまま葬られてしまう悲喜劇である。
拷問のテーマを扱った演劇も多い。拷問の存在を単に確認するのではなく、理解させるべきであるという考えから、スペインのサストレにならって犠牲者の心理分析によって拷問を生んだ体制を批判している。ブラジルのボアルは、15世紀のスペイン異端審問官「トルケマーダ」を主人公として、拷問の恐怖を描いている。ウルグアイのマリオ・ベネデッティは『ペドロと隊長』(1962)で、拷問により徐々に崩れてゆくペドロの肉体を克明に描いている。しかし、拷問をテーマにしながら舞台では上演されない劇のほうがインパクトが強い。代表的な作品として、アルゼンチンのパブロフスキーEduardo Pavlovsky(1933―2015)による『ガリンデス氏』(1979)などがある。
1970年代から1990年代にかけてのラテンアメリカの演劇は、社会的、政治的コミットメント(公約)と創造性・芸術性の融合に成功した。北アメリカやヨーロッパで残忍さが人生の一つのメタファー(隠喩(いんゆ))であるのに対し、ラテンアメリカでは具体的現実である。しかし、これらのドラマのなかで犠牲者はなんらかの形で救済されており、わずかではあるが希望が残っている。
[野々山真輝帆]
キューバとニカラグアの演劇
カストロ独裁政権下のキューバと、1984年から一時期サンディニスタ左翼政権下にあったニカラグアの演劇事情はほかの国々と少々異なるために別に扱う。
キューバとサンディニスタ革命後のニカラグアでは、歴史的にマージナル(周辺的)だった人々の声を収録する演劇の環境が整った。
ガルシア・マルケスの『百年の孤独』の人物から名前をとったブエンディア劇団は、1985年に結成され、そのリーダーは女優・劇作家であるフローラ・ラウランで、俳優はみな、芸術高等学院の卒業生であるエリートからなる。彼らは1954年の『ロランド・フェレル』を書き直した『リラと蝶』(1954)を上演、これはキューバ版『欲望という名の電車』である。リラは洋裁店主だが、堕落した女でもはや店の運営はできない。彼女は第二幕の終わりに自殺し、第三幕ではその葬列に観客も参加する。革命前の戯曲を書き直し、アメリカの影響下にあった堕落した国の実態を若者に見せ、現在のキューバと比較している。しかし、革命を批判することはいっさい許されない風土に失望してキューバを去った演劇人も少なくなかった。文化省は観客を動員する政策をとり、芸術高等学院の学生はえりぬきのエリートたちで、生徒数はわずか十数名であった。政府はブエンディア劇場を強大化することに力を注いだが、キューバ演劇の中央集権化は、すなわち演劇界のマンネリ化を意味した。
一方、革命後五十数年たって生まれた若手の劇作家たちは、いわばアマチュアであり、彼らを中心にハバナの郊外や山岳地帯を中心に活性化の動きが始まった。たとえばベネズエラ出身のビクトール・バレラVictor Varela(1935―1984)が障害物劇場とよぶ『第四の壁』を、自宅のリビングルームで少数の観客を前に上演した。またキューバ国立ダンスカンパニーのメンバーからなる個人的グループは、造形活動とよぶストリート文化をつくった。文化省はこのような個人のグループをしだいに受け入れるようになり、財政援助も行うようになった。舞台は劇場の建物から街頭など多様な場所に移り、政府の財政援助を求める小グループは、ハバナだけでも70ほど存在している。
ニカラグアの約10年間(1979~1990)にわたるサンディニスタ革命下の文化の特色は、中央集権の解体であった。ゲリラ戦は山岳地帯で行われ、首都マナグアは無関係であった。このため、軍事的活動は地方化し、経済・政治の中央集権は崩れた。この現象は、政治的荒廃を招いたが、文化は華々しく開花した。当初、文化省は文化の中央集権化を試みたが、その責任は文化労働者と名のるサンディニスタ連盟に移り、政府からフルタイムの給与が支払われた。しかし、予算不足のため文化省は1988年2月までに解体して教育省の一部門となり、サンディニスタ文化協会が政府から独立して結成された。協会は外国からの援助も受けた。
ニカラグアでは、太平洋岸と大西洋岸はイギリスとアメリカの影響が強いが、地方は文化的にそれぞれ個性豊かである。サンディニスタの文化政策は、映画、音響、テレビなど広汎(こうはん)なプログラムによって北アメリカの影響を駆逐しようとするものだった。しかしそれは容易ではなく、一時的に駆逐できても、すぐにその影響は復活した。実験劇場ミゲル・デ・セルバンテス・グループは、映画館や高校で西欧のポップ音楽、ブレイクダンス、映画などを取り入れた演劇を上演した。地方の農園では農村文化的プロダクションが生まれるが、キューバのようなプロのグループがないことが悩みでもある。演劇グループ「ニックス・タヨレーロ」は、アラン・ボルトが1970年代につくったもので、各都市で政治的アジテーションの演劇を上演した。マタガルパの農園から13人の農民、その他の地方からも農民が参加してさまざまな地方文化を持ち込んだ。そのほか、1988年まで活動したコミュニティ演劇運動グループ「テヨ・コヤーニ」の上演した『ファンとその世界』は、革命前とその後の社会を対照的に描写する二幕もので、大成功を収めた。第三幕は観客がつくり、中央と周辺部の緊張関係を強調し、中央への復帰を呼びかけた内容であった。サンディニスタ革命後、都会の演劇界はメキシコ、コロンビア、エルサルバドル、アルゼンチン、スペインの演出家に頼り、独自性を失った。
キューバ、ニカラグアの政治文化形成のプロセスは単純ではない。ニカラグアの演劇は革命の道具として生まれたが、なぜ急速に革命批判に移行したのか、キューバの演劇界は革命後長期にわたって国家に依存してきたのはなぜかなど、解明すべき問題は多々ある。
[野々山真輝帆]
『ガルシア・ロルカ著、長南実・大林文彦他訳『ロルカ戯曲全集』全3巻(1992・沖積舎)』▽『カルデロン・デ・ラ・バルカ、ロペ・デ・ベーガ、ティルソ・デ・モリーナ著、佐竹謙一・岩根圀和訳『スペイン中世・黄金世紀文学選集7 バロック演劇名作集』(1994・国書刊行会)』▽『ミゲール・ミウラ、アントニオ・ブエロ・バリェッホ、アルフォンソ・サストレ著、佐竹謙一編訳『現代スペイン演劇選集――フランコの時代にみる新しいスペイン演劇の試み』(1994・水声社)』▽『佐竹謙一著『スペイン黄金世紀の大衆演劇』(2001・三省堂)』▽『シャルル・V・オーブラン著、会田由・戸張智雄・戸張規子訳『スペイン演劇史』(白水社・文庫クセジュ)』▽『Albuquerque Severino JoãoA Study of Contemporary Latin American Theatre(1991, Wayne State University Press)』▽『George Yúdice, Jean Franco, and Juan Flores, editorsOn Edge : The Crisis of Contemporary Latin American Culture(1992, University of Minnesota Press)』